"見たい、知りたい"に挑戦し続ける【テレビ70年企画】

塚田 祐之
"見たい、知りたい"に挑戦し続ける【テレビ70年企画】

テレビ放送が日本で産声を上げたのは1953年。2月1日にNHK、8月28日に日本テレビ放送網が本放送を開始しました。それから70年、カラー化やデジタル化などを経て、民放連加盟のテレビ局は地上127社、衛星13社の発展を遂げました。そこで、民放onlineは「テレビ70年」をさまざまな視点からシリーズで考えます。今回は、国際中継やハイビジョン中継などの現場での経験から、テレビ報道の醍醐味を考えます。


私はいま71歳。テレビ放送が始まる11カ月前の1952年3月生まれなので、テレビと一緒に同時代を歩んできたことになる。23歳で番組ディレクターとしてNHKに入局。テレビも青年期に入ったばかりで、まだまだ発展途上にあった。当時の映像取材はフィルム、それがビデオに。放送もアナログからデジタルハイビジョンへ。放送技術の進歩を見据えながら、新たな発想で次々と番組作りに挑戦できた時代だ。

私はその経験から、テレビは視聴者の見たい、知りたいに挑戦し続けるメディアだと考え、報道番組制作の現場で30年仕事をしてきた。

生放送のニュース番組は、瞬間、瞬間に何が起きるかわからない。とっさの判断が常に求められ気が休まることはないが、なぜかそれが醍醐味でもある。

2週間世界一周、毎日生放送

1990年6月、『NHKニュース・21』の高島肇久キャスターと私は、成田空港から一路モスクワに向かっていた。世界のホットな現場にキャスターが立ち、時代の大きなうねりを毎日生放送で伝えるためだ。この手法は当時、ロケーション・アンカー方式とよばれ、ニュース番組の新たな伝え方への挑戦だった。

最初の現場はモスクワ、ソビエト連邦共産党大会。
前年にドイツのベルリンの壁が崩壊し、第2次世界大戦後続いてきた、アメリカを中心とした西側の自由主義諸国と、ソ連を中心とした東側の共産主義諸国との対立、いわゆる"東西冷戦"が終結。世界は「対話と協調の時代」に向かって動きはじめていた。いまのロシアのウクライナ侵攻をはじめとした「対立の時代」とは正反対だ。

ソ連はその後の崩壊につながる難局に直面していた。モノ不足が国民生活を直撃し経済の混迷が続く中で、ゴルバチョフ書記長の命運や党の分裂、そしてソ連の今後のゆくえに注目が集まっていた。

仮設のキャスター・ポジションは、この時まで許可が下りることがなかった赤の広場と政治の中枢、クレムリンを見下ろすホテルの屋上に構えることができた。しかしトラブルの連続だった。

1日目の生放送が始まり、東京に事前に送ってあった取材VTRに切り替わった途端、ホテルがいきなり全館停電。伝送画面は真っ黒になり、現場の現地スタッフは大騒ぎになったが、なすすべがない。辛くもVTR放送中に停電が回復しほっと胸をなでおろしたが、電力不足がここまで深刻なのかと実感した。

2日目は雨。急きょソ連製の透明のビニールで仮設天井を作ったが、薄くて品質が悪く生放送の途中で穴が開き始めた。高島キャスターのバストショットのカメラ前で雨がタラタラ流れはじめ、しだいに滝のようになってしまったが、そのまま生放送を乗り切るしかなかった。

3日目は、翌日の放送に間に合うようイギリスに移動せざるをえないため、事前に収録した後半部分の要人へのインタビューVTRを再生すると同時に空港に向かって飛び出した。

ドタバタの連続ではあったが、キャスターの視点を通して、当時のソ連の危機的な状況と課題を現場から実感をもって伝えられたように思う。
これが事実上最後の共産党大会となり、翌年ソビエト連邦は崩壊した。

4日目、5日目はロンドンからNATOサミット(北大西洋条約機構首脳会議)が取材の舞台。冷戦終結後の安全保障がテーマとなった。市内の公園に作られた仮設のプレスセンター前で放送準備をしていたところ、映像は高島キャスターだが、音声はアラビア語のようだという東京からの緊急連絡が入った。

大急ぎで原因を突き止めると、ベルギーのブリュッセルにあるEBU(ヨーロッパ放送連合)のコントロールルームで映像と音声のつけ間違えが発生していることがわかり、なんとか放送直前に間に合った。私はこの時まで、映像と音声が別々に送られていたとは思いもよらなかった。

週末に大西洋を渡りアメリカのヒューストンへ。G7サミット(主要国首脳会議)の放送は毎日順調に進んでいたが、最終日になって、どうしてもキャスターの音声が東京までつながらないという事態が発生した。

調べてみると、時差の関係でNHKがサミット会場からの最後の生放送だったため、すでに前夜から機材の撤収が始まってしまっていた。バラバラになった多数の音声ジャックの中から、技術スタッフがなんとか1本を見つけ出し、つながったのは放送のわずか数分前だった。

いまはスマートフォンで世界中から映像がつながる時代だ。当時は、衛星中継はつながらない、つながってもトラブルだらけで、それでもなんとか現場の息吹を伝えようとみんなで知恵を絞って挑戦した。そのチーム力が、荒削りではあっても活気あふれるみずみずしい放送につながっていたのではないか。そんな気がしてならない。

「皇太子さま・雅子さま ご結婚パレード」
ハイビジョン一体化中継への挑戦

12月1日は「デジタル放送の日」。BSデジタル放送は2000年12月1日に、地上デジタル放送は2003年12月1日に開始された。いまでは当たり前となっているデジタルハイビジョン放送だが、ハイビジョン化、デジタル化が実現するまでには多くの放送人の長期間にわたる努力と挑戦があった。

私も番組制作者として、2つの大規模なハイビジョン中継オペレーションに携わった。いずれもBSを通じたハイビジョン試験放送だったため、視聴者はもちろん、放送関係者にもあまり知られていない。

一つは1993年6月9日に行われた、皇太子さまと雅子さま(いまの天皇・皇后両陛下)の「結婚の儀」と「パレード」のハイビジョン中継特別番組だ。

1959年、当時の皇太子さまと美智子さま(いまの上皇・上皇后両陛下)のご結婚パレード中継が、テレビが家庭に急速に普及するきっかけになったといわれている。そこで皇太子さまと雅子さまのご結婚を機に、"次世代のテレビ"といわれていたハイビジョンで中継番組を制作し、ハイビジョンの高画質・高音質という特性を知ってもらい、未来への映像資産にしたいと考えた。同時に、その当時のハイビジョン機材だけでどこまで大規模な生中継番組が制作できるのか、実用化に向けた経験を積みたいという目的もあった。

当時はハイビジョン受信機が1台100万円という時代。この規模の中継ではカメラだけでも100台前後は必要だが、使えるハイビジョンカメラはすべてをかき集めても55台あまり、ハイビジョン中継車も仮設を含めて10数台しかなく、機材が極めて限られていた。

こうした状況の中で、皇居・賢所で行われる「結婚の儀」と、皇居から赤坂御用地までの4.2㎞の「パレード」を完全ハイビジョン中継しようという計画だ。

プロジェクトで検討を始めると次々と難問にぶつかった。
機材が少ない中で映像をつないでいくためには、要所、要所で高所撮影が欠かせない。しかし、高所は警備上の問題があり、なかなか許可が下りなかった。私は警視庁の担当者と一緒に、パレードが予定されるルートを何度も歩き、一つ一つの建物を下見して交渉を重ねる日々が続いた。

同時にハイビジョン映像の伝送には当時は光ケーブルが不可欠で、技術担当者が光ケーブルを立ち上げることができる沿道の建物を探し出し、協力を求めていった。最終的に使用した光ケーブルの総延長は150㎞にも及んだ。

撮影技術でも、ハイビジョンによるヘリコプターからの生中継や、ハイビジョン・ワイヤレスカメラを使った皇居前広場の移動中継など、初めての挑戦が続いた。これらの映像をすべて千代田放送会館に集め、BSではハイビジョン推進協会が実施していた試験放送(アナログのMUSE方式)で、オール・ハイビジョンの中継特番を放送した。

同時にこのハイビジョン映像を、当時の標準テレビ方式(NTSC)にダウンコンバートし、地上波独自の中継カメラ30台あまりの映像を加えて、総合テレビの中継特番を制作した。
試験放送段階のハイビジョン映像をベースに、総合テレビの中継特番を一体的に制作するという思い切った挑戦だった。

ご結婚パレードの最高視聴率はNHKと民放を合わせテレビ全体で79.2%(ビデオリサーチ・関東地区)にまで達した。
 
実際に一体化制作をしてみると、課題も見えてきた。テレビ画面のヨコ:タテの比率が当時の標準放送は4:3、ハイビジョンはワイドの16:9と違いがあり、どちらも満足できる映像作りの難しさを実感した。この課題は、テレビの完全デジタル化まで続くことになる。

「G8沖縄サミット」
デジタルハイビジョン中継への挑戦

もう一つ、私が携わった大規模なハイビジョン中継オペレーションは、2000年7月に沖縄で開かれた「G8サミット」だった。

日本で初めての地方開催となるサミットには、これまでの主要7カ国の首脳とともに、この年に就任したばかりのロシアのプーチン大統領が加わり、G8サミットが沖縄県名護市を中心に開かれることになった。

5カ月後の12月には、NHKと民放各局のBSデジタル放送の開局が予定されており、沖縄サミットの機会に、高画質、高音質のハイビジョンとデータ放送等の機能を持つBSデジタル放送の魅力を世界に発信したいと考えた。同時にBSデジタル本放送開始前の最終システムチェックの役割も兼ねていた。

検討をはじめると、すぐに直面したのは今回も機材と映像伝送回線の問題だ。
離島である沖縄にハイビジョン機材をどう集めるか。NHKでは、BSデジタル放送開始を前に地域拠点局にハイビジョン中継車が順次配備されており、連日番組素材の収録でフル回転していた。その日程をギリギリやりくりして、鹿児島まで陸送し最短で沖縄まで運ぶことになった。

伝送回線は、スコールのような強い雨が降る夏の沖縄の天候を考え、CS伝送ではなく光ケーブルが不可欠だと考えた。しかし、東京まで伝送する光ケーブルには多大な投資が必要だった。

沖縄サミットの主要議題の一つが、21世紀の繁栄に向けた情報通信技術(IT)の活用だったこともあり、外務省のサミット準備事務局を通じて交渉を重ねた結果、国の協力が得られることになった。国際メディアセンターと、那覇空港をはじめサミット会場の万国津梁館、首里城、那覇市内のホテルのレセプション会場等を光ケーブルでつなぎ、サミット関連の中継はすべてハイビジョンで行うことができた。

当時は圧縮技術が未成熟だったため、ハイビジョン映像1回線を100Mbpsの非圧縮ベースバンドのまま、東京まで光ケーブルで伝送。BSデジタルの試験放送でハイビジョンの『サミット特別番組』を放送すると同時に、NTSC方式にダウンコンバートして、テレビの代表中継映像としてNHKと民放各局への素材分岐を行った。

特に印象に残っている場面がある。首脳会合の休憩時間に、各国首脳がBSデジタル放送の視察に訪れた。試験放送なので、すぐに番組を切り替え、その模様を特別番組にした。アメリカのクリントン大統領とロシアのプーチン大統領の2人が一緒に並んで、自分たちが映っている生中継のハイビジョン映像とそれぞれの経歴を記したデータ放送を見ながら、しばらくの間、談笑を続けていた。

現在のウクライナをめぐる米ロの対立とはほど遠い、なごやかな雰囲気の時間が流れていた。

G8沖縄サミットでのデジタルハイビジョン中継への挑戦は、機材がまだまだ開発途上であったためトラブルも相次いだが、なんとか乗り切ることができた。サミット最終日、議長を務めた森喜朗首相の締めくくりの記者会見の途中で、外はスコールのような猛烈な雨が降り始めた。BS放送は降雨減衰のため受信できなくなったが、ハイビジョン中継は光ケーブルのおかげで順調に伝送できた。こうした経験を経て、新たなメディア、BSデジタルの放送開始にむけた最終準備が整っていった。

テレビ70年の歴史をあらためて振り返ってみると、私が携わった時代は日本の経済も社会も右肩上がりの時代だった。テレビも発展途上で、どんどん新しい挑戦ができる環境にあった。だが、そうした時代にあっても、何かこれまでとは違う伝え方や発想ができないかと常に考え、挑戦し続けなければ、新たなものは生まれてこなかったように思う。

テレビはおもしろい。まずは制作者自身が見たい、知りたい、伝えたいという明確な意志を持つことから始まるのではないだろうか。

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