日曜日の午後1時。時報とともに、ラジオからビリー・ヴォーン楽団が演奏する『浪路はるかに』のゆったりとした曲が流れてくる。徳島にある四国放送ラジオ『JRT 日曜懐メロ大全集』、2時間55分の生放送の始まりだ。
この番組のパーソナリティは、梅津龍太郎さん、81歳。昭和52(1977)年に『演歌懐メロ日曜3時間』のタイトルでスタートしたこの時間の顔として毎週放送を続けてきた。リスナーのリクエストにこたえる「懐メロ番組」ではあるが、梅津さんは「正論をいう人が少なくなっている」といわれるいま、政治や社会の問題にもズバリ直言する。
<梅津龍太郎さん>
番組では毎週、2時間ほどを特集にあて、硬軟織り交ぜたさまざまなテーマで懐メロを紹介している。懐メロとその時代、映画にまつわる思い出......、梅津さんのこれまでの経験や感じたことを、長年のコンビであるアナウンサー出身の岩瀬弥永子さんとのおしゃべりで率直に語りかける。世代の違う老舗ホテルの経営者、岡田典子さんも加わり、高齢者だけでなく、より幅広い層にむけた懐メロ番組をめざしている。
なぜ、ローカル局のAMラジオで、44年間も親しまれている長寿番組となっているのか。徳島で取材した。
<3人のパーソナリティ。
左から岡田典子さん、梅津龍太郎さん、岩瀬弥永子さん>
四国で民放の現場を支えて60年
梅津龍太郎さんは、昭和15(1940)年に徳島で生まれた。家業が給食センターを営んでいたため高校卒業後に、東京の栄養専門学校に進学した。しかし、小さいころ、映画館で見たニュース映画が忘れられず、映像の世界をめざそうと21歳で郷里に戻った。
そのころ、徳島では四国放送のテレビが昭和34(1959)年に開局。梅津さんは放送劇団に加わり、毎週金曜日の生放送番組『芸能まわり舞台』に出演して、コントや踊りを繰り広げていった。
しかし、ニュース映像に携わりたいという気持ちが抑えられず、NHK徳島放送局でニュースのアルバイトをし、原稿取りから、カメラ撮影、映像編集、ニュースの送出までを1年間で学んでいったという。
そして、関西テレビ放送の徳島駐在のカメラマン、記者に採用され、当時は四国に系列局がなかったフジテレビ系列のニュース取材を始めた。昭和41(1966)年に起きた全日空松山沖墜落事故をはじめ、四国各地で起こる事件や事故、災害などを一人、カメラを持って取材に走り回ったという。その後、テレビ愛媛の報道の立ち上げに加わった後、徳島に戻り、四国放送テレビの人気番組『おはようとくしま』のリポーターをしながら、ラジオのこの番組と出会った。同時に、高松の西日本放送の番組にもレギュラー出演するなど、徳島を拠点に、四国に根ざして活躍してきた放送人だ。
<関西テレビ放送 徳島駐在カメラマン・記者時代の梅津龍太郎さん>
私が梅津さんに初めて出会ったのは、ラジオの番組が始まった翌年のこと。取材先の舞踊家で、阿波民俗芸能の記録に精力的に携わっていた檜瑛司さん宅で鉢合わせをした。当時私はNHK徳島放送局の新人ディレクターとして、阿波踊りのルーツを沖縄までたどる特集番組の企画について檜さんに相談をしていた。その時、突然現れた梅津さんは、徳島の山間部の小さな集落の農村舞台や、県内各地に伝わる神踊りについての話を始めた。転勤族のNHKと、地域に深く根を張った地元民放との、企画に対する目線の違いを実感させられた出会いでもあった。
だれにでも「懐メロ」がある
話を『日曜懐メロ大全集』に戻す。取材に訪れた日の特集のテーマは、「大人の女性のラブ・ソング」だ。『シルエットロマンス』『別れの朝』『ラストダンスは私に』など16曲が並ぶ。選曲したのは昭和のエンターテインメントに詳しい徳島大学副学長の田村耕一さんだ。田村さんは元日本銀行マンで徳島経済研究所の専務理事なども務めた。その傍ら、ハナ肇とクレイジーキャッツなど芸能界とも親交が深い異色の経歴の持ち主だ。
人と人とがつながるきっかけを大切にしている梅津さんは、こうした人材を発掘してくることにもたけている。曲をかけながら、その時代の出来事や梅津さんの当時の経験、歌にまつわるさまざまな話題などおしゃべりは広がっていく。
<ゲスト田村耕一さんと3人のパーソナリティ>
「懐メロ」とは何か。梅津さんは、「流行歌」ということばが好きだ。歌は時代とともにあり、人々の思い出も歌と時代が結びつくことから始まる。番組では「2000年以前、できれば昭和以前の曲を」とリクエストを呼びかけてはいるが、だれにでも「懐メロ」がある。
特集では、懐メロをテーマ別、歌手別、作詞家別、作曲家別、さらには昭和〇〇年に流行った歌というような年代別などと、縦横無尽にくくって、構成していく。「大人の男性のラブ・ソング」というテーマも成り立つので、企画は無限に広がる。演歌や懐メロにこだわった番組が少なくなる中、そんな自由さがこの番組の魅力の一つだ。
ラジオで映像を伝える
二つ目の魅力は、梅津さんの映像にこだわってきた人生に由来する。映画が大好きで子どものころから数多くの映画を見てきた梅津さんは、物語のシーンばかりではなく、映像のカットのつなぎまで、こまかく記憶していることが多い。ニュースカメラマンや映像編集に携わった経験から自然に身についたと話す。その経験を活かして、ラジオではあるがどんな話題でも、映像としてわかるように具体的に語りかけているという。
徳島フィルムコミッション活動にも熱心に取り組み、数々の映画、テレビ番組のロケの誘致や、古い映画館を使った山田洋次映画祭などの開催にも奔走した。そうした活動から、山田洋次監督の『虹をつかむ男』や渡辺謙主演の『沈まぬ太陽』などの徳島ロケが実現した。梅津さんは、「徳島をPRしたいだけではなく、地元の人々がロケに参加し一緒に楽しんでもらいたいという思いが強かった」と話す。
こうした縁もあって、21年夏、映画『キネマの神様』の公開をきっかけに、山田洋次監督が『日曜懐メロ大全集』に電話で出演。近所の公園から電話で参加したという山田監督は、梅津さんのインタビューに答えること30分を超え、コロナ禍の中での映画作りへの思いをじっくりと語った。
戦争、公害......社会問題を語り継ぐ
『日曜懐メロ大全集』へのリクエストや意見は、ラジオネームではなく、実名での投稿を毎回呼びかけている。責任を持って伝えていきたいとの思いからだ。特集では戦争をはじめ、さまざまな社会問題を取り上げ、関係者にじっくりインタビューしながら、当時の音楽やゆかりの曲を紹介している。こうした骨太の企画もこの番組の魅力だ。出演交渉は梅津さんが自ら、出版社や映画配給会社等に問い合わせ、直接交渉を重ね実現していくという。
21年の秋、映画『MINAMATA―ミナマタ―』の公開を機にシリーズで、当時、水俣病の取材にあたった熊本日日新聞社の元論説委員長へのインタビューや、写真家ユージン・スミス氏の元妻アイリーン・美緒子・スミスさんへのインタビューを伝えた。アイリーンさんは、それまで「封印」されてきた胎児性水俣病患者の少女と母親が入浴する場面の写真公開に込めた思いをじっくりと語った。
梅津さんは、終戦のとき4歳で直接の戦争の記憶はないが、戦後の混乱期の体験や多くの戦争体験を聞き、自分で実感を持って伝えられる世代だからこそ、事実を語り継いでいく責任があると話す。戦争を二度と起こしてはならないという思いで、戦争について特集で伝え続けている。
21年夏には自身の体験をもとにした「僕の戦争」や、「76年目の終戦記念日」「戦争の影を歌う」、さらには「ベトナム戦争」「パレスチナを往く」などをシリーズで放送した。
12月の開戦80年では、真珠湾攻撃で日本人捕虜第1号となった徳島県阿波市出身の『酒巻和男の手記』を取り上げた。数奇な運命をたどった酒巻氏の生涯を長男や専門家などへのインタビューでたどった。酒巻氏が戦後、「歴史は後世に正しく伝えていかなければいけない」という思いで書いた手記を通じて、酒巻氏が体験した戦争の事実を伝えていくことの大切さを訴えた。
番組にはすぐに反響があった。放送翌日までに、アマゾンには「手記」の購入注文が50冊入った。また、この手記の復刻版の出版にはクラウドファンディングが使われたが100万円が集まった。梅津さんは、徳島のローカルラジオのこの番組を、徳島はもとより、radikoを通じて全国で多くの人々が聴いてくれていることをあらためて実感したという。
最後に梅津さんに、徳島への思いを聞いた。3つの「ない」だという。私にはここしかない。徳島は嫌いじゃない。徳島にはこだわらない。
2022年4月、『日曜懐メロ大全集』は放送開始から45年を迎える。
梅津龍太郎さん、81歳。まだまだ、新たな挑戦が続く。