写真:マードックとトランプ前米大統領(BBC「マードック王国の台頭」ウェブサイトから)
世界的なメディア王、ルパート・マードックは今、どうしているのだろうか。
マードックが日本で「黒船来襲」と呼ばれたのは、1996年と26年も前のこと。彼が率いるメディア大手、ニューズ・コーポレーション(当時)とソフトバンクは同年6月20日、合弁会社を設立し、全国朝日放送(現・テレビ朝日)に間接的に資本参加すると発表した。
その結果、日本の新聞・テレビ業界の猛烈な反発に遭い、マードック氏は早々と計画を撤回した。
1996年といえば、彼が米国でケーブルニュース専門局FOX Newsを立ち上げた年でもある。私は、この開局が、トランプ前大統領という半ば冗談のようなアメリカ大統領を生んだとすら思っている。1996年は、米国の政界を、特に保守勢力の固定観念を一変させるメディアが誕生した、米メディア史上忘れられない年だ。
英BBCは2020年、彼の台頭と野望を暴き出す3部構成のドキュメンタリーシリーズ「マードック王国の台頭」を制作した。私は21年末にそれを見て、驚愕した。彼がメディアを使って築いた「保守の帝国」が、アメリカのみにとどまらず、世界中に及ぼす影響力の怖さを描いているためだ。そして、まもなく91歳になるマードックの死後も、その影響力は続く、あるいは増す可能性さえある。
ドキュメンタリーは、メディア複合企業の危うさ、いや危険性をも描いている。
「マードックは、英サン紙、英タイム紙、米ウォール・ストリート・ジャーナル紙のほか、世界中に何百というメディアを保有する。(中略)彼はビジネスマンであるだけでなく、各国政界の最高位の人物に介入する男だ」と、BBCのドキュメンタリーは始まる。映像は、彼が中国の習近平・国家主席、英国のボリス・ジョンソン首相らと握手をしたり、話し込む姿だ。
彼が築いた王国が、彼が生まれたオーストラリア、さらにアメリカ、英国に対してどのような影響と結果を招いたのか、BBCドキュメンタリーの内容を紹介しながら考えてみたい。
まずオーストラリア。マードックは1931年、メルボルンの生まれ。52年、父でオーストラリア大手新聞社社長だったキースの急逝で、学業半ばにして事業を引き継いだ。事業を整理したのち、マードックの手元に残ったのはオーストラリアで5番目の都市アデレードの地方新聞「ザ・ニューズ」だけだった。しかし、彼はザ・ニューズを成長させ、1970年代には主要新聞を買収し、オーストラリア有数の新聞大手を築いて今日に至る。
オーストラリアで近年、何が起きたか
マードックが1964年に初の全国紙として創刊した「ジ・オーストレリアン」のエディター・アット・ラージ(特別デスク)は2014年、マードックに気候変動問題についてインタビューした(BBCでも放送)。マードックはこう答えている。
「気候変動は、地球が存在する限り、常に起きている。(中略)海抜レベルが15 センチ上昇すれば、(インド洋の島国)モルディブ共和国は消滅するだろうが、私たちはそれを止めることはできない。だから、海岸沿いに大邸宅を建てないことだ」
2019~20年にかけて起きたオーストラリアの森林火災は、国土の森林の2割以上を焼き尽くした。これに対し、スコット・モリソン首相(オーストラリア自由党=右派政党)は、火災発生後に休暇でハワイに行った。国内で轟々たる非難を受けても、気候変動の影響を軽減し、火災による損害を最小限にする国内政策を打ち出さなかった。「気候変動について語るべき時機ではない」としてきた火災以前の態度を崩さなかったわけだ。
オーストラリア政府の後ろ向きな対応が、当時の森林火災を長引かせたとする報道は、当時散見された。BBCは、モリソン首相が、マードックと食事をしたりパーティをする姿と、森林火災の空からの映像を重ね合わせる。
アメリカでのマードックの影響力も同様だ。前述したFox Newsは、保守系市民の受けを狙い、気候変動は人類、つまり温暖化ガスが生み出したものではないと繰り返している。
米国メディア界への進出
マードックは1985年に米国に帰化している。彼の米国メディア界への進出は、以下の順で行われた。
1985年 ハリウッド映画スタジオの20世紀フォックスの買収、マードックは米国に帰化
1986年 ネットワークテレビ局FOX設立
1996年 ケーブルニュース局FOX News設立
2005年 SNS大手のMySpace買収
2007年 有力経済紙ウオール・ストリート・ジャーナル買収
中でも注目したいのは、FOX Newsの台頭だ。1996年にマードックが、保守系視聴者のために開局したビジネス的な手腕には、驚かされる。アメリカ合衆国憲法に謳われた「自由」と「平等」を愛するアメリカでは、リベラル系メディアこそ群雄割拠していたが、保守系メディアは当時、ほぼ皆無に等しかったからだ。
<各メディアの視聴者・読者のイデオロギー的位置付け、
米調査機関ピュー・リサーチ・センター=2014年による>
上の図を見ると、FOX Newsが保守系市民にとっていかにありがたい存在かが分かる。2014年の調査だが、この時点でも右側、つまり保守系のメディアは極めて少ない。1996年時点では、保守系ニュースサイト「ドラッジレポート」が1995年に誕生したばかり。そこにテレビという巨大メディアとして登場したFOX Newsは、「入れ食い」状態で保守系ニュースに飢えていた視聴者を獲得していった。
現在、全米を対象とする主なケーブルニュース局は、FOX News、CNN(1980年開局)、MSNBC(1996年開局)の3局体制。ニールセン・メディア・サーチによると、2021年の全日平均視聴者数はFOX Newsが132万人、MSNBCが90万人、CNNが77万人と、「入れ食い」状態は今もそして今後も続く見通しだ。
BBCは、マードックがトランプ大統領候補(2016年大統領選当時)と距離をおいていたことは、指摘している。傘下のウォール・ストリート・ジャーナルも、トランプの選挙戦は「カオス」だと書いた。しかし、FOX Newsは、トランプファンを喜ばせる報道を続けた。
トランプの選挙アドバイザーであり、ホワイトハウス首席戦略官だったスティーブ・バノンはBBCにこう語った。
「マードックこそが、(メディアを通じ)マスの視聴者、特に労働者階級の心をつかむ方法を知っていた」
それを実践したのがFOX Newsだった。トランプ政権が発足し、気候変動問題を解決すべくオバマ民主党政権が打ち出した政策は、次々に無効にされた。全米に散らばる水質や空気の調査をする官公庁の技官らも職を失った。
そればかりでなく、人種差別、女性差別を肯定する発言がホワイトハウスから発信され、独裁に近い状態が4年間続いた。BBCが「マードック帝国の台頭」を放送した後の2021年1月には、トランプ大統領の集会で扇動された支持者らが、アメリカ民主主義の象徴である連邦議会議事堂を襲撃さえした。
英国で引き起こしたブレグジット
最後に、マードックは、英国で何を引き起こしたのか。それは「英国の欧州連合離脱(ブレグジット)」だ。
BBCのドキュメンタリーでは、マーガレット・サッチャーに始まり、ジョン・メージャー、デイヴィッド・キャメロンと歴代の保守党党首・英首相、そしてボリス・ジョンソン現首相と、マードックがともにいる映像を流している。
マードックの新聞社の元編集者で、元BBCテレビ・インタビュアーのアンドリュー・ニールは、BBCにこう語る。「ニューズ・インターナショナル(現ニューズUK、米ニューズ・コーポレーションの英国法人)が、英政府に関わる範囲と親密さ、一方で英政府側からのニューズとの関わりは、前例を見ないほどになっている。マードックひとりだけでなく、編集者も新聞社幹部もみな、政界と新聞の双方に対し影響力がある。だから、マッチポンプなんです」
元英国独立党党首で、2016年のブレグジットの立役者となったナイジェル・ファラージもBBCドキュメンタリーに出演し、2013年に初めてマードックに会ったと証言している。「ブレグジットは可能だろうか、とマードックに聞くと、『可能だ。簡単ではないが、可能だ』と語った」と目を輝かせる。
マードック傘下の英大衆紙「ザ・サン」は、欧州懐疑主義を焚きつける報道を一貫して続けた。ブレグジットをめぐる国民投票は、投票者の過半数がブレグジットを選んだ。
「マードックは、ブレグジットを可能にする素晴らしい環境を作り出したと思う(中略)。ザ・サンは、長年に渡り、政治的な意見として明確に示されなかった、この国の多くの人のフィーリングを反映したのだと思う」(ファラージ)
アメリカでFOX Newsが、保守系で特に労働者階級の政治的イデオロギーを反映するメディアがなかったために成功したのと同様、英国ではザ・サンが同じ役割を果たした。
「マードックは、自由民主主義が大事だと思う人にとっては、真の意味での危機を意味する」英俳優ヒュー・グラントはBBCにこう言った。
BBCによるとマードックは、ブレグジットや2016年米大統領選挙の際、自ら現地法人や新聞社などに乗り込んでいる。彼が動かすのはテレビや新聞という主要メディアであり、世界のポピュリズム的環境を生み出す力を持つ。謎が多かった彼の政治的影響力について、ここまで暴いたBBCのドキュメンタリーは、世界のメディア業界に警鐘を鳴らす役割をも果たしている。