2003年の発足から7月1日で20年となるBPO(放送倫理・番組向上機構)。放送倫理検証委員会、放送と人権等権利に関する委員会、放送と青少年に関する委員会の3委員会が、放送界の自律と放送の質の向上を促している。
「民放online」では、BPOの設立の経緯や果たしてきた役割、その成果などを振り返り、現在の立ち位置と意義を再認識するための連載を企画。多角的な視点でBPOの「現在地」と「これから」をシリーズで考える。
「BPO発足20年 連載企画」記事まとめはこちらから。
4回目に登場いただくのは、読売新聞記者、ヤフー・トピックス編集長などを務めた奥村倫弘・東京都市大学教授。
BPOへの誤解から考える
番組や放送局に対する社会からの批判に真摯に耳を傾けながらも、制作者の言論や表現の自由を確保する目的を持って、BPO(放送倫理・番組向上機構)は生まれた。発足から20年を迎えた昨今、ネット上では制作者や視聴者の声として、BPOが「制作活動を萎縮させている」「番組をつまらなくしている」といった不満を目にする。
BPOが「自主規制」組織の一面を持っていることは間違いではないが、その言葉が独り歩きをし、あたかも表現の規制を目的とした組織であるかのようなニュアンスが誇張されてしまっているとしたら、それは誤解だろう。むしろBPOは番組制作者の「自主・自律をうながす組織」であるという側面は十分に強調しておく必要がある。
自分が目の前で取り組んでいる取材やコンテンツ制作の過程において、「こうであったら面白いのに」「こうであったら感動的なのに」などという気持ちが内側から湧いてくる経験は、プロかアマかを問わず、コンテンツの制作に携わる者であれば誰にでもあるだろう。それがコンテンツの深みを増したり、幅を広げたりする原動力になっている側面はあり、否定されるべきではない。
しかし、その感情が度を超すこともある。それが過剰な演出や捏造を生み出し、社会的な批判にさらされる経験を、放送業界は何度も繰り返してきた。捏造やヤラセはともかく、かつては許されていた取材方法や演出が「時代にそぐわなくなった」という理由で、業界の内外から苦情を申し立てられ、かつて許容されていた活動や表現の幅が狭められていく。そのさまは現場にとって納得のいかない、歯がゆい事態だと受け止められることもあるだろう。「ノリの良さ」や「尖った姿勢」のようなものが、どこからともなく求められるテレビ番組制作の現場の者であればなおさらだと察する。BPOに押し付けられたかのような、その納得のいかない気持ちを現場はどう受け止めれば良いのだろうか。
ネットコンテンツ制作の倫理とは
コンテンツの制作は、インターネットが登場して以来、マスメディアに所属する者だけの活動ではなくなった。ネットのクリエイターたちは、テレビの番組制作者と同じように、視聴者に自分たちの動画を見てもらいたいと常々考え、それを収益化したいとも思っている。アップロードされる膨大な数の動画のなかには、青少年に有害で危険なコンテンツやヘイトが含まれることもある。
彼らの一部には、動画中のキャプションに「死ね」と書くと動画が削除される可能性が高いと考えて、「タヒね」と書き換えたり、健康を扱う動画では「コロナ」という言葉を「流行り病」と言い換えたりして運営の「規制」をかいくぐり、性的なコンテンツには自発的にモザイクをかけて「自主規制」をし、パクリコンテンツには積極的に加工を施すことでオリジナリティを増すような"工夫"をしていたりする。一方で、あからさまな過剰演出や差別を助長するような動画、出演者がなじり合うような不愉快な動画であっても、そのまま放置されることもあり、動画が削除されるかどうかは運次第といったところである。つまり、コンテンツが不適切だと判断されるかどうかは、運営者側が設けたガイドラインや気まぐれによる。これが最大のルールである。
ガイドラインや気まぐれに触れない限り、自由奔放に振る舞えるネット世界の表現はテレビのそれと比べて自由であるとも言えるが、規制する側と規制される側の関係の中で、クリエイターたちはルールに引っかからないよう立ち回っているだけだとも言える。ルールは主催者側が設定するものであり、参加者側はそれに従うという構図は、「運営のルールに抵触しなければ、何をしても問題はない」という考え方であり、彼らの生み出すコンテンツが「社会的に許容される価値観に合致しているかどうか」というクリエイター側の倫理はさほど重要ではない。
制作者に求められる「自主・自律」とは
放送業界に身を置くプロフェッショナルたちは、そんな一部のネットのクリエイターたちとは違うと私は思っている。BPOに指摘されることを恐れ、指摘をいかにすり抜けるかを考える人たちではない。変化しつつある社会の価値観をいち早く感じ取り、自らの内側に倫理的な規範を持ち、模範となるようなコンテンツを生み出すプロフェッショナルである。そうでなければ、いずれ立法や行政などからの不本意な介入を招くことになり、表現は強制力をもって制限される。放送業界は長期的に多大な損失を被ることになるだろう。
かつてマスメディアは、容疑者を呼び捨てにしていた。さらに「前科○○犯」と前科を書き記し、刑期を終えてもなお、犯した罪に触れるのが普通であった。「容疑者」という呼称が付くようになったのは、1980年代、BPOが設立される前の話である。連行写真の掲載も特に新聞では昔と比べて随分抑制的になった。人権保護の観点からマスメディアの対応は時代に合わせて進歩してきたと言える。
「容疑者を呼び捨てにしてはならない」という法律があったわけではない。社会の価値観の変化を現場が感じ取りつつ、関係者が不断の努力をもって、自らを律していくことはこのように可能だろう。外からの圧力で変わるのではなくて、番組作りにたずさわる人たち自身が変わっていくという姿が望ましい。社会の価値観に合致する職業倫理を自分たちのなかに作る方が望ましい。
放送業界に身を置くプロフェッショナルたちは、果敢に攻めて再生数を勝ち取り、ガイドラインに引っかからないようずる賢く振る舞ったり、引っかかれれば撤退したりするような一部のネットのクリエイターとは違うと思いたい。BPOの指摘を恐れながら番組を作るのではなく、自分の作った番組が社会の価値観に合致しているかどうかを判断できるプロフェッショナルであってほしいと思う。それが制作者に求められる一つの「自主・自律」ではないか。
BPOは己を映し出す鏡
現場の制作者にとって、BPOの指摘は、自動車の「ブレーキ」や動物園の「檻(おり)」であるようにも感じられることもあるだろうが、そうではない。そもそも外部から放送への不当な介入を防ぐ防波堤のような役割も果たすことを意図しているのであるから、この組織は「外圧をかける側」にあるのではなくて、むしろ「外圧から守る側」にあると理解できないか。BPOから出される「勧告」や「意見」は、鏡に映し出される自分の姿のようなものであり、乱れた服装が映し出されたとしたならば、それは自分で直したほうがよい。そしていずれは、鏡を見ずとも着こなせるようになれば、それが望ましい。
BPOは「業界の自主規制」機関と呼ばれることもあるが、その意図するところは「制作者に対して自主的な規制を促す組織」ではなく、「制作者に対して自主・自律を促す組織」であると言ったほうが、私にはしっくりくるのである。