3つの話題に流れる"通奏低音"
国家による自由か、国家からの自由か――。それが問題だ。ハムレットを気取るつもりはないが、最近とみにそう思う場面が増えてきた。
(1)衆院憲法審査会による憲法改正国民投票法のCM規制論議
(2)総務省の有識者会議によるデジタル時代の放送制度の在り方に関する検討
(3)自民党情報通信戦略調査会によるBPO(放送倫理・番組向上機構)と番組審議会の検証
それぞれ独立したテーマで、ばらばらに動いている話題である。
(1)は2021年6月に成立した改正国民投票法の附則に「広告放送及びインターネット広告の制限」について、同法の施行後3年をめどに「必要な法制上の措置その他の措置を講ずる」と盛り込まれ、今年に入って議論が活発化している。
(2)については、民放事業者の大方の関心の的は、ローカル局の経営基盤強化を目的としたマスメディア集中排除原則の緩和や、ローカル局にとって維持管理コストが負担となっている小規模中継局のブロードバンド代替が可能かどうかの検討だろう。
(3)は、BPOや番審が設立当初に「期待された役割」を果たしているかを、自民党調査会が1年かけて検証するというものだ。
今年3月9日の自民党調査会会合に出席した私は、民放連の立場・見解を説明した(説明内容は「下」で述べる)。そのことがニュースで報じられると、民放労連(日本民間放送労働組合連合会)が2日後の3月11日に「民主主義社会の基盤となる言論・表現の自由を脅かすような論議が政権与党内で行われていることに対して、私たちは放送で働く者として、強く抗議します」とする声明を発表した。
このように要約して並べてみれば、それぞれが独立した話題であるのは間違いない。
けれども、私にはまるで"通奏低音"のように、どの話題も「国家による自由か、国家からの自由か」と問いかけられているように思えるのだ。
民放労連の表現を借りれば、自民党調査会によるBPO議論はもちろん、それ以外も、「民主主義社会の基盤となる言論・表現の自由を脅かすような論議」の萌芽をはらんでいる気がしてならない。
「国家による自由」を唱える憲法学者
そのことを解き明かすのが本稿の狙いなのだが、ここで述べることはあくまでも個人の見解であり、民放連としての見解・立場ではないことを最初にお断りしておく。加えて、これも誤解されたくないのではじめに打ち明けておくと、「国家による自由か、国家からの自由か」というフレーズは、決して私の造語ではない。
(2)のデジタル放制検(「デジタル時代における放送制度の在り方に関する検討会」)の第2回会合(21年12月6日)で、曽我部真裕・京都大大学院教授(憲法学)が「『情報空間』に対する政策的介入としての放送制度について」と題する意見表明を行ったのに対して、検討会メンバーの山本龍彦・慶應大大学院教授(憲法学)が質問し、その際に出たフレーズである。
正確な引用は煩雑になるので避けるが、曽我部教授が「国が新聞やインターネット・SNSを含む情報空間に向き合う際、放送政策がそのテコになる」と主張したところ、山本教授が次のような質問を行った。
「従来は『国家からの自由』が主流の考え方だった憲法学の世界が『国家による自由』という考え方に転換してきているのか」
山本教授は「私も曽我部先生の議論と非常に近い」とも述べ、曽我部教授は「一定の転換はあるのではないか」と答えた。デジタル放制検は、奇しくも少壮気鋭の憲法学者2人が、そろって「国家による自由」の立場に立った情報政策論を展開する場面となっているのである。
15年ぶり復活?メディア規制条項
本題に戻そう。ばらばらに映る3つの話題の"通奏低音"のことである。
(1)の衆院憲法審査会は、今年に入って活発に審査会を開催している。
改正法の附則に盛り込まれたCM規制の議論も活発化しており、今年2月10日の審査会には、自民党の新藤義孝衆院議員が「考えられる『国民投票におけるCM規制』のあり方(メモ)」と題する論点整理のペーパー=図1=を再提出した。
<図1 CM規制論点ペーパー>
このペーパーは、20年5月28日の審査会ではじめて登場したものだが、メディアに携わる人間にとって、見過ごすことのできない表現が含まれている。
例えば、「放送事業者の自主的取組」を例示しながら「新聞・雑誌社の自主的取組」や「ネット事業者の自主的取組」に言及している。新聞・放送・雑誌・インターネット等の事業者に対して、「各事業者の自主的取組を求める旨の『訓示規定』」「国民投票広報協議会による各事業者の自主的取組に関する『ガイドラインの作成』」を法律に書き込むことも例示されている。
国民投票法の制定(07年)から15年の歳月が経過し、立法の経緯を忘れてしまった人も多いと思うので、簡単におさらいしておく。
国民投票法は、06年に法案が国会に提出される直前まで、「表現の自由を濫用して国民投票の公正を害してはならない」とするメディア規制条項が盛り込まれていた。これに日本新聞協会や民放連が繰り返し反対の態度を示し、提出直前に削除されたものの、広告放送についてのみ、投票日直前の放送禁止の条文が残った。民放連はこの条文に反対し、参考人聴取でも「自主規制に任せてほしい」と主張したものの、これが受け入れられず07年の法制定に至った。
さらに、この時の「自主規制」という表現が独り歩きして、今日に至るまで「民放連はCM量の自主規制を国会で約束した」と言われることになった。
私は18年から19年にかけて衆院憲法審査会に3度にわたって出席し、そのうち1度(19年5月9日)は会議録が公開されているので、民放連の立場・見解をここで繰り返すことは控えるが、新聞メディアの人たちは、15年の歳月を経て、新聞も対象に加えたメディア規制の議論がひそかに"復活"していることをどう考えるのだろうか。
ちなみに、新聞協会は06年当時、国会の場で「仮に訓示規定であっても、取材・報道活動を萎縮させ、活発な憲法論議を妨げるおそれがある」と意見表明している。
メディア規制の立場は野党も一緒
論点整理ペーパーに出てくる国民投票広報協議会は、与野党の議員で構成する「院の組織」だ。つまり立法府がメディアに自主規制を促す、そのためのガイドラインを策定する、そのことを法律に書き込む、ということだ。審査会での議論では、自民党の議員が「広報協議会に監視機能を持たせるべきだ」とも発言している。
こう書くと「自民党けしからん」と言う人が出てくるかもしれないが、事はそう単純ではない。メディア規制を強く求めているのは、自民党よりもむしろ野党(特に立憲民主党)だからである。
論点整理ペーパーが再提出された今年2月10日の審査会では、立憲民主党の奥野総一郎衆院議員が同党の法案概要=図2=を説明している。「広告放送の全面禁止」など放送関係の文言が目立つが、それ以外にも、「インターネット有料広告に係る事業者等の取組(掲載基準の策定等)」「インターネット等の適正利用のための国民投票広報協議会による指針の策定」といった表現が含まれている。
<図2 立憲民主党の法案概要(「第2」以下は略)>
確かに、インターネット空間は真偽不明な情報があふれているし、フェイク広告も混ざっている。しかも争点が憲法改正であれば、いっそう虚実入り乱れた情報があふれかえることも予想されよう。
だが、インターネット上の対策がきわめて難しいのは、圧倒的な量のアウトサイダーが存在するためだ。あらゆる人が広告を含めた情報の主体者になり得て、しかも、海外のサーバーを経由すれば取り締まりも容易ではない。
そういうインターネットの特性を利用してフェイクニュース、フェイク広告が生み出されているのに、真面目に取り組んでいるネット事業者に対して、立法府がいくら「指針」を策定し、ネット事業者に「掲載基準の策定」を促しても、何の解決にもつながらない可能性が高い。むしろ国民投票法が"アリの一穴"となって、国がインターネットを含む情報空間に介入する端緒となるだけではないか。
ここで、デジタル放制検の議論(「国が新聞やインターネット・SNSを含む情報空間に向き合う際、放送政策がそのテコになる」)を思い出してもらいたい。
立法府においても、与野党そろって「放送事業者の自主的取組」をテコに、「新聞・雑誌社の自主的取組」や「ネット事業者の自主的取組」に言及しているのだ。デジタル放制検の議論も、国民投票法のCM規制の議論も、根底の部分においては、放送をテコにしてネット空間への介入を企図しているという点で、構図がとても似通っている。
私が"通奏低音"と表現したことが、すこしはご理解いただけただろうか。
(「中」につづく)