【BPO発足20年 連載企画⑤】わたしとBPO 制作現場の一員から見たBPOの存在意義

たむらようこ
【BPO発足20年 連載企画⑤】わたしとBPO 制作現場の一員から見たBPOの存在意義

2003年の発足から7月1日で20年となるBPO(放送倫理・番組向上機構)。放送倫理検証委員会、放送と人権等権利に関する委員会、放送と青少年に関する委員会の3委員会が、放送界の自律と放送の質の向上を促している。

「民放online」では、BPOの設立の経緯や果たしてきた役割、その成果などを振り返り、現在の立ち位置と意義を再認識するための連載を企画。多角的な視点でBPOの「現在地」と「これから」をシリーズで考える。 

「BPO発足20年 連載企画」記事まとめはこちらから。


5回目に登場いただくのは、放送作家のたむらようこさん。

「鬼が来るよ」の抑止力

ふだん現場で番組を制作している時、私たち制作者はBPOの存在を意識していない。すっかり忘れていると言っても過言ではないだろう。BPOの3文字が話題に上がらないことは、制作が順調に運行している証しなのだ。

今回コラムを書くにあたり、BPOとは私たちにとってどんな存在なのか。あらためて考えてみると思い当たるものがあった。「鬼が来るよ!」――皆さんも子どもの頃に親御さんから言われたことがあるかもしれない脅し文句、「鬼が来るよ」の鬼! 私にとってBPOはまさにそんな存在だ。

BPOと私の出会いはセンセーショナルだった。2007年当時、構成を担当していた番組『発掘! あるある大事典Ⅱ』が捏造問題で放送番組委員会(現在の放送倫理検証委員会)に諮られたのだ。

正直なところ、それまでBPOという言葉を聞いたことはあっても何をする組織なのかは、全く知らなかった。軽く振り返っておこう。「あるある」の問題は(あまり思い出したくはないが)「納豆」をテーマにした放送回で、あたかも納豆を食べれば痩せるかのようにデータが捏造されたことだった。

個人的な話になるが、私にとって「あるある」は、声をかけてもらったのではなく、初めて自分から志願して入った番組。がんを患っていた祖母に、有益な健康情報を届けたいという一心で参入し、毎回、心を込めて台本を書いていた。だから新聞や雑誌に捏造だと書き立てられ、週刊誌や当時出始めだったウェブメディアにあることないことを書かれ、完全に落ち込んでいた。

さらに、テレビ局が自浄のために組織した第三者委員会(外部識者)からは、まるで凶悪犯の取り調べのように台本を机に叩きつけられ、「私は普段通りに仕事しただけで何も悪くないのに!」と恨みすら募らせていた。そんな時期だったからBPO放送番組委員会から出された声明も素直に受け止められたとは言い難い。現場を知らない人が想像でモノを言わないでほしいとすら思っていた。

しかしその後、騒動が落ち着いた頃に(スーパーで納豆を見かけても涙が出なくなった頃に)もう一度、声明を読んでみて気がついた。BPOの声明は、私が現場で困っていたことを、書面にしてくれているのだと。例えば、会議で求められる「面白い健康情報」「既視感のない新しい健康情報」が、どんどんインフレを起こしていたこと。「そんなに面白い情報や新しい情報は毎週、転がっていないよ」といつも心の中でボヤいていた。そんな根性で乗り切っていた「無理」を、「危険なこと」としてクリアにし、声明にすることで制作者を守ってくれていたのだと。

傷だらけになりながらではあったがBPOの存在意義を体当たりで知った出来事だった。

次にBPOと接することになったのは2年後の2009年。青少年委員会の「デジタルネイティブがテレビを変える」というシンポジウムに、なんと登壇者として招集されたのである。「あるある」の一件以来(実際は捏造に加担していなくても)、私はBPOから「捏造のあった番組に関係していたスタッフ」として危険人物と見なされているだろう、と考えていた。しかし評論家の荻上チキさんや、演出家の今野勉さんらと壇上で議論してみよ、というのである。この時、BPOとは、犯罪者を取り締まる警察でもなければ、罪をジャッジする裁判官でもなく、もっとフラットな立場で「より良い番組づくり」を目指す組織なのだと、今度は血を流さずに知ることができた。

その後のBPOとの接点といえば、何かの番組がBPOの審議入りとなったり、BPOが「見解」を出したりすると、新聞などのメディアから「現場の声」としてコメントを求められることが増えた。

こうしていろいろな形でBPOと接してきた私は、冒頭で述べたようにBPOとは「鬼が来るぞ」の鬼である、との考えに至ったのである。たとえば「なまはげ」のように、日本には昔から悪事を戒める鬼のような存在が伝わっていて、一定の抑止力となっている。普段は忘れて過ごしているけれど、悪事を働こうとする時、ルールを逸脱しようとする時、ふと頭をよぎる存在。子どもたちにとっての「鬼が来るよ」が、テレビを作る大人たちの「BPOに怒られちゃうよ」なのだろうと感じる。一見、怖いし、敵のようであるが、その存在の力を借りて己を律することができる。自主・自律の手助けとなるのが、鬼でありBPOなのではないか。

理解の不足と萎縮

しかしBPOが抑止力として機能するとしたら、それはBPOのことを知っている人に限ってのことである。忙しい現場、さらにはコロナ禍を挟んでオンラインでの会議も増えたことで、先輩から後輩への知識の受け渡しがうまくいかず、BPOの存在自体を知らない若いテレビマンも少なくはない。

また、BPOという名前くらいは知っていても、目的や成り立ちまでは知らず、必要以上にBPOを恐れている人も見受けられる。制服を着た警察官を見かけたら、何も悪いことをしていないのに、ちょっと遠回りして避けようとする人がいるように、BPOと聞くだけで厄介から遠ざかろうとする。せっかくの思い切った演出も「BPOに何か言われるんじゃないか」と勝手に萎縮して取り下げてしまう。事なかれ主義のプロデューサーなどもやみくもに「BPOが怖いから、そのくらいにしておけ」などとディレクターのアイデアをつぶして、より安パイな前例のある構成に押し込めてしまう。本来、自由であるために設置されている「常識のタガ」が、萎縮の元となってしまうのは残念だ。中には「こうしておけばBPOに何も言われないだろう」などとBPO対策を講じる番組もあると聞く。まるでBPOを敵だと思っているかのようだ。

しかし「鬼が来るぞ」の鬼もBPOも、敵ではない。「ここまでやっても大丈夫かな?」と程度を測る、自らを映して確かめる鏡のようなものだ。目を背け、やみくもに怖がり、萎縮していては面白い番組も、新しい番組も、ましてやみんながアッと驚くようなぶっ飛んだ番組は生まれない。BPOの見解によって萎縮してしまうと感じたら、自分が思考停止に陥っていないか立ち止まって考えてみる必要があるかもしれない。BPOに強制力はないし、何ひとつ強制しようともしてない。

発信の強化が課題

2022年「萎縮を生む」と世間的にも話題になったのは、青少年委員会が出した「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」に関する見解だろう。私も『毎日新聞』『週刊フジテレビ批評』などからコメントを求められた。

年末、『週刊フジテレビ批評』で、私は息巻いていた。「BPOであろうと、どこの組織であろうと番組の作り方をとやかく言われる筋合いはないです。見解は見解ですからうのみにして全部、言うこと聞く必要なんかまったくない! 自分の頭で考えて、これは視聴者が楽しんでくれるかな? 誰か傷つかないかな? 不快じゃないかな? と一人ひとりの制作者が判断して作るんです、それがプロです。視聴者と制作者、受け手と作り手の綱引きだけが演出の強度を決めるヒントであるべき」......ざっとこんなことを喋って「言ってやった」と少しいい気になっていた。すると一緒に出演していた放送作家の先輩・伊藤正宏さんが「BPOの見解、全部読んでる?」と疑問を呈してきた。あなたは新聞やウェブメディアに切り取られた部分だけを取り上げて語っているが、見解の全文を読めばBPOが痛みを伴うことを笑いの対象にすることを全否定しているわけではないよ、と。帰宅後、慌てて全文を読んだらたしかにそのとおりだった。

ここで自分の怠慢を棚に上げて、BPOに提案したいのは発信の強化だ。BPOのウェブサイトをわざわざ見に来る人はほとんどいない。その事実を前提にBPOの意義、個別の議論の内容、見解などを、もっと多くの人に届くように発信してはどうだろうか?

人のふり見て我がふり直せ。BPOで行われている議論は、テレビマンが自らの担当番組について考えるきっかけになるはずだ。

知ることは自由を担保し、テレビの未来を作ると信じて。

最新記事