【BPO発足20年 連載企画①】 自律の実績とコミュニケーションが鍛える自由~BPOの20年から~

濱田 純一
【BPO発足20年 連載企画①】 自律の実績とコミュニケーションが鍛える自由~BPOの20年から~

2003年の発足から7月1日で20年となるBPO(放送倫理・番組向上機構)。放送倫理検証委員会、放送と人権等権利に関する委員会、放送と青少年に関する委員会の3委員会が、放送界の自律と放送の質の向上を促している。

「民放online」では、BPOの設立の経緯や果たしてきた役割、その成果などを振り返り、現在の立ち位置と意義を再認識するための連載を企画。多角的な視点でBPOの「現在地」と「これから」をシリーズで考える。 

「BPO発足20年 連載企画」記事まとめはこちらから。


1回目に登場いただくのは、BPOの理事長(201521年)、評議員(0608年)を務めた濱田純一・東京大学名誉教授。

はじめに

BPOが、2003年の発足以来、今年で20年を迎えた。この20年という短くない年月の経過は、格別の重みを持っている。それは一つには、放送において自律の仕組みが機能することを、実績を持って証明したことである。公的規制に依らない自主的な規制という、これまで十分な先例を有しない仕組みが、数多の実践の蓄積を背景に社会に定着してきたことは、放送界を越えて、日本社会の成熟の一端を示していると見るべきだろう。また、いま一つに、放送界における自由が、自主規制のシステムに組み込まれたコミュニケーションの過程で鍛えられてきたことにも、注目しておく必要がある。

こうした二つの成果は、公的規制の回避が大きな焦点であったBPOのスタート時においては、必ずしも十分には見通せなかったものとも言える。しかし、そのような緊張感が存在したからこそ、成果が生み出されたという面もある。BPOを軸とした自主規制と放送のさらなる成熟のために、スタート時のような緊張感を意識し続けることが、20年という節目に改めて求められるだろう。

自律の実績が持つ重み

BPO2003年に自主規制機関として出発した時、参照できる十分なモデルがあったわけではない。第二次大戦後の長い歴史を持つ映倫は存在したが、自主規制の趣旨や方式はかなり様相を異にする。もっとも、放送界では1960年代から、「放送番組向上委員会」や「放送番組向上協議会」といった第三者の意見を聞く仕組みの経験が蓄積されており、また、1997年に「放送と人権等権利に関する委員会機構(BRO)」「放送と人権等権利に関する委員会(BRC)」がスタートし、それらがBPOの発足への助走となった。その経緯を見れば、放送界における自主規制の経験は広い意味では、60年の歴史を持っているという言い方もできるだろう。そうした歴史の上に、仕組みが整備されてスタートしたBPOの経験がもたらしたのは、放送界において質の高い自律が可能であるということの証明となる、実績に裏付けられた「証拠」である。丁寧な手続きを踏まえてまとめられた数多くの委員会決定に象徴される、そうした実質的な「証拠」は、抽象的に交わされる公的規制論や自主規制論に比べて、はるかに重い説得力を持っている。

もちろん、BPOのあり方については、さまざまな立場からの批判も見られ、そこには傾聴すべきものもある。しかし、批判があることがBPOの仕組みに対する本質的な評価を損なうわけではないだろう。例えば、そもそも議会制民主主義の運営についても、日々さまざまな立場からの批判は存在する。しかし、であるからと言って、その仕組みが根本から否定されるわけではない。合理性を備えた批判は、それへの応答や緊張感の存在を通じて、むしろBPOという組織の改善強化につながってきたというのが、この20年の経験である。

このような自主規制の仕組みが機能し定着してきていることの意味合いは、放送界だけにとどまらない。BPOの運営には第三者の委員が多数かかわっており、事案に関係した人々も多く、また委員会決定等の報道も広くなされて社会的な認知度も深まっている。BPOの活動は社会の構成要素としての一角を占めるに至っており、こうした組織において自主規制の仕組みが適切に機能していることは、社会としての成熟の一つの証左ともなりうるだろう。

コミュニケーションが鍛える自由

BPOの機能を評価する上で重要な点は、その運営の過程において、関係する委員会の第三者委員と放送現場の人々との間にコミュニケーションの回路が設けられていることである。BPOの活動について、一般のメディア等による報道では、その委員会の決定や見解などが報じられることが多い。しかし、これらはBPOの活動のいわば半分と言うべきであって、決定の内容等についての記者会見や事案の当該局での研修、事例研究会や年次報告会、また各地での放送局と委員会との意見交換会や放送局への講師派遣といったさまざまな仕組みによって、委員が放送現場に向けて考え方を説明し、あるいは議論をし、意見交換をする回路が設けられていることの意義を見落とすべきではない。こうしたコミュニケーションを十全に行う活動が可能なことは、自主規制であればこその大きなメリットである。

このような過程があることによって、BPOの決定や見解などの考え方をしっかりと放送の現場に伝え、消化してもらう機会が生まれる。一般の裁判過程では、判決文は示されても、判決に至るまでの悩み、逡巡などが表に出ることはない。「裁判官は弁明せず」であって、判決を受け取った側は、あくまでその文章だけで推測を働かせて咀嚼していくしかない。しかし、BPOの決定や見解などについては、さまざまな機会を捉えて、当事者への説明が丁寧に行われ、また質疑応答もなされることによって、決定等に至るまでの委員会の考え方や、そこに含まれるインプリケーションなどをより理解することができる。

他方で、こうした意見交換等の機会があることによって、BPOの委員は現場の感覚をより深く理解することも可能になる。BPOの委員会の判断に対して、放送現場から疑義や質問が出されることも少なくない。そうした問いかけに応答することを通じて、委員会の委員も鍛えられていく。

BPOは規律のモデルであるとともに、自由を鍛えていくためのモデルとも理解すべきだろう。社会的に承認される自由は放恣のままでもないし、公的規制に一方的に条件づけられるものでもない。むしろ、自由の枠組みやその質について、さまざまな立場の人たちの間でコミュニケーションが交わされ相互に了解されることによって、その内容が煮詰められていくことが望ましい。BPOが備える多様なコミュニケーション回路は、その意味で、放送の自由を鍛えていく仕組みとしても評価されて然るべきだろう。

緊張感を持続することの大切さ

自由の逸脱が生じるところにおいて、公的規制が求められるのは当然であって、それは、表現の自由、放送の自由であっても例外ではない。これまで触れてきたように、BPO20年間にわたる存在は、自主規制がこの社会に根付いてきたことを示しているし、自由の質の向上についての取り組みも日常化してきている。それでも、表現の自由というテーマには、常に公的規制との緊張が内在している。

その意味では、BPOの姿にも、放送の自由の姿にも、完成形がすでにあるわけではない。むしろ緊張が存在することが常態であって、そうした緊張を自主規制の枠組みの中でしっかりと受け止め、自由の質の向上のためにむしろ活用していくという前向きの姿勢こそ、これからのBPOとそれにかかわる人々に求め続けられるものだろう。

思い返せば、BPOの前身の一つであるBROが生まれた背景には、郵政省(当時)が開催した「多チャンネル時代における視聴者と放送に関する懇談会」において、放送界が自ら律することができなければ、公的規制の仕組みが設けられることもやむを得ないという緊張感があった。それは、たしかに当時の放送界にとって大きな危機だったが、放送界がそうした緊張を前向きに捉え、第三者機関であるBROをスタートさせたことによって、自主規制の実績を積み重ね、また自由を鍛え上げていく仕組みも育ってきた。こうした、BPOが発足に至るまでの当時の緊張感を、放送の現場に携わる人々も絶えず思い起こし、それを保ち続ける環境の中で、BPOが放送の自由と質を支え続ける役割をさらに高めていくことを期待したい。

最新記事