【BPO発足20年 連載企画⑦】BPO放送倫理検証委員会発足と現在地

小町谷 育子
【BPO発足20年 連載企画⑦】BPO放送倫理検証委員会発足と現在地

2003年の発足から7月1日で20年となるBPO(放送倫理・番組向上機構)。放送倫理検証委員会、放送と人権等権利に関する委員会、放送と青少年に関する委員会の3委員会が、放送界の自律と放送の質の向上を促している。

「民放online」では、BPOの設立の経緯や果たしてきた役割、その成果などを振り返り、現在の立ち位置と意義を再認識するための連載を企画。多角的な視点でBPOの「現在地」と「これから」をシリーズで考える。 

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7回目に登場いただくのは、放送倫理検証委員会の小町谷育子委員長。

村木さんが伝えたかったこと

手元に「テレビマンユニオンの誕生」という抜き刷りがある。村木良彦さんが、『テレビマンユニオン史』のために執筆したもので、放送倫理検証委員会が設置された後、最初の委員会の日に渡して下さった。年齢が離れ60年代の社会状況をあまり知らない私に、村木さんのバックグラウンドや制作者集団誕生の歴史を伝えたかったのだろうと当時は受け止めていた。法律の世界にはない筆致の新鮮さと目の前に出来事が見えるような写実性に感嘆し、文章とはこういう風に書くべきなのかと、時折、取り出して読むことがあった。BPO20周年を機に、放送倫理検証委員会の16年間を思い返しながら、今あらためて読んでみると、穿った見方かもしれないが、委員会発足時の社会状況の中で、表現の自由の闘いという問いを忘れてはならないという覚悟を共有するためのものだったのではないかと思えてならない。それほどあのときは緊迫していた。

放送倫理検証委員会立ち上げの理念

2007年5月12日、BPOは放送倫理検証委員会を設置。5月23日、委員会の第1回会議開催。会議後、川端和治(委員長)、村木良彦(委員長代行)、小町谷(委員長代行)、石井彦寿、市川森一、上滝徹也、里中満智子、立花隆、服部孝章、吉岡忍の委員全員で記者会見を行い、皆が表現の自由の大切さと委員としての抱負を切実に熱く訴えた。とりわけ表現活動に携わってきた委員の熱量がすごく、この日のことは決して忘れたことはない。委員会の議事概要に残っているが、川端委員長は、「表現の自由が民主社会を守る上で一番重要だ。もちろん表現の自由といっても、特に放送の場合は電波という公共の資源を使うということで、放送する側が自ら律していかなければならない事柄があると思う。それを国家権力、行政の側が放送法や電波法の規定を手段として介入してくるということは決して好ましいことではないので、われわれのような委員会が自ら律していただくためのお手伝いをしたい」と述べている。

すでに知られていることではあるが、時間を巻き戻して発足当時の状況を少し振り返っておきたい。2007年1月、放送番組で食品の実験データや学者のコメントの捏造が発覚し、放送法に、虚偽の放送を行った放送局に対し総務大臣が再発防止計画の提出を求めるという行政処分の創設を盛り込む動きが加速した。3月7日、BPONHK、民放連の3者が、BPOの放送番組委員会に代わり新しい委員会を設置することによるBPOの機能強化を合意。しかし、4月に行政処分を盛り込んだ放送法改正案が国会に提出され、この時点では成立の見通しもあった(のちに行政処分が削除され成立)。5月に委員会が設置されたのはこうした切迫した状況下だった。政府による行政処分によるのではなく、放送局が自律的に不祥事を解決し是正していく仕組みの一つとして設置された委員会は、その船出から困難な役割を担ってきたが、それを十全に果たしているかを日々自らに問いながら活動している。

委員会がめざすもの

以下、放送局の自律をキーワードに、委員会の活動を振り返り、委員会の現在地を考えてみたい。

放送局の自律を端的に表現したのが委員会の第1号決定の意見書(2007年8月6日)である。そこでは、冒頭で、日本の放送界が、放送法と電波法によって直接に行政の監理下に置かれ、折々に行政指導を受ける、という特殊な環境にあることを指摘したうえ、こうした状態を是正していくために、放送界がみずからを律し、多様・多彩な放送活動を通じて、視聴者から信頼され、支持されることがますます大切になると述べている。そして、そのための委員会の活動を次のとおり表現している。

もとより「倫理」は、外部から押しつけられるものではなく、内発的に生まれ、自律的に実践されることによって鍛えられるものである。放送倫理も例外ではない。放送倫理は、放送に携わるすべての人々が日々の仕事のなかで自覚し、内部統制の制度や番組制作のガイドラインとして現実化され、具体的な場で活かすことを通じて、番組の質として現われてくる。放送界が放送倫理と番組の質的向上のたゆまぬ努力をかさね、多様・多彩な放送活動をより自由に行なうよう促すこと――委員会がめざすのは、この一点である。

このために、委員会が実務で大切にしていることがある。まず、放送番組に放送倫理上の問題が生じたとしても、その問題が小さく、また適切な是正措置が取られている場合には、委員会は放送局の自律を尊重し審理・審議をすることは控えている。問題が小さいときはあえて取り上げる必要性は乏しいし、放送局の真摯な反省と改善に向けた取り組みこそが、最も効果的に番組内容を向上させると信ずるからである。この方針は、発足後ある時期まで総務省の行政指導が続いた時期に委員長談話(2009年7月17日)として公表したものである。委員会はどういう場合に、審理・審議入りするのですか、という質問を受けることがあるが、まずはこの談話を読んでいただければと思う。

また、委員会は、番組制作に放送局の組織的・構造的な問題があると疑われるときに議論を行うこととしている。問題が番組制作者個人の資質や行為に収斂するときには、放送局による処分や教育等の対応が行われており、他の放送局に共有し番組制作に役立ててもらうような視点が乏しいと考えられるからである。 

放送局の自律があってこそ

以上のように説明すると、委員会はNHKと民放連という放送局側が設置したものだから、放送局に甘いのではないかという疑問が投げかけられるかもしれない。しかし、委員会は取り上げるべき事案については迷うことなく審理・審議入りし、意見書を公表してきたと思う。仮に委員会の活動が十分ではないという意見や批判があるならば、それを真摯に受け止めて、自在に発展していく組織として今後も存在していくべきだろう。

この自律を尊重することは、放送局の報告書に関する評価にも貫かれていた。意見書を公表した後に3カ月報告が放送局から届くのだが、初期の委員会で、報告書の内容について辛口の意見が出て、このままただ受け取ることでいいのかという議論がなされたことがあった。市川森一委員が、放送局の自律として了とすべきであるという趣旨の意見を述べられ、委員皆が納得したことがあった。報告書は、委員会の意見書を受けて、当該放送局が再発防止策を含め局の見解を明らかにする正式な文書である。明らかに問題がある報告書が提出されるならばともかく、放送局の報告書は、調査の過程で出されるものも含めて、たとえ委員会から見て不十分なところがあったとしても自律性の発揮の一つとして評価し受け取ることとしている。

委員会は地方で1年に2―3回意見交換会を行ってきた。委員会の活動を説明し、放送倫理の啓発を行うとともに、放送局の抱える問題を共有する場を持つためだ。時折、放送局から基準を示してほしい、何をすればいいか教えてほしいという質問や意見が出される。委員会は放送倫理について、どこまでがセーフでどこからが倫理違反なのかという基準や境界を示したり、放送倫理を守るために行うべき事項を挙げたりすることはしていない。いやそれらをすべきではないし、してはならないと思う。ここでも放送局の自律が試されているのであり、放送局の側で放送倫理に向き合い考えてもらい、各局で自ら答えを出してもらわざるを得ない。もっとも、委員会は共に考えることはできるし考えたい。最近の意見交換会では、ジェンダー問題について議論をし、こんなふうに考えることができるのではないかと具体例を示しながら委員の考え方の道筋を話すことによって、放送局とともに問題の難しさを共有することができたと思う。

現状と課題、そして放送局に望むこと

さて、最後に、委員会の現在の活動に関する制限や限界について説明し、個人的な意見を述べる。

まず、委員会が議論できるのは、放送された番組に放送倫理違反があるかどうかである。多様な論点を提示すべきであるから、このような観点で番組を放送すべきだ、この視点で番組が作られていないので制作するよう勧告すべきだ、というような活動は、委員会には許されていない。それこそ放送の自由に介入することになりかねない。

また、最近2年間で、放送局の自律を待つだけでは解決が難しいかもしれないと思案する事案を経験した。問題となり得る表現が意見であると放送局が説明することによって放送倫理の射程から外れていく事案があるのではないかという点だ。意見書には記載していない部分が個人的に気がかりだった事案や、委員会として討議にすら入っていない事案であるため、ここでは放送局名や番組名は記さない。名誉毀損の法律議論では、証拠等による証明になじまない物事の価値、善悪、優劣についての批評や論議は、意見・論評の表明に属するとして、民主主義社会に不可欠な表現の自由の根幹を構成するものであることを考慮し手厚い保護が与えられている。この考え方を名誉毀損表現に限定することなく放送倫理一般に引き写すことができるならば、問題となり得る表現が数ある意見・論評の中の一つであり、放送倫理上問題はないという考え方が成り立つことにならないか。そもそも意見か事実かという線引きは簡単ではないところがある。放送局が意見だとして譲らない場合、委員会との考え方の相違は平行線になる危険をはらんでいるように思う。

次に、社会で生起する事象に関する評価や物の見方について、かつて皆が共通して持っていた常識のようなものが急速に崩れているように見え、そのことが番組制作上の問題に影響を及ぼしたと捉えることができる事案の場合、それを放送倫理上の問題として指摘することは、委員会の本来の役割ではないのではないかという疑問だ。それは高等教育、ジャーナリズム教育が担うべき仕事のような気がしてならない。

さらに、インターネット上で配信された番組で放送はされていないものを、委員会が審理・審議する対象に含めることができるかという問題が提起されるようになった。視聴者からすれば、同じ放送局が制作していながら、配信だけされた番組についてなぜ委員会は議論をしないのかという疑問を持つにちがいない。現時点では、委員会が配信にとどまる番組を議論することはできない仕組みになっている。BPOの規約自体が放送のみを対象にしているだけでなく、BPOが定めた委員会の運営規則では、委員会が、放送番組の取材・制作のあり方や番組内容などに関する問題について討議し、討議の結果、放送倫理を高め、放送番組の質を向上させるため、さらに検証が必要と判断した場合は、審議を行うことを決定すること(4条1項)、虚偽の疑いがある番組が放送されたことにより、視聴者に著しい誤解を与えた疑いがあると討議において判断した場合、その番組について放送倫理上問題があったか否かの審理を行うことを決定すること(5条1項)を、明確にしている。委員会は運営規則に定められた事項以外のことを行うことは認められていない。委員会が配信番組についても討議すべきであるか否かはNHKと民放連が決めることだ。今は、放送局が積み上げてきた放送倫理の経験に照らして、品位を保ち、広い意味での倫理に沿った番組が制作されることを期待するほかはない。

放送局と並走する組織として

2016年の米国大統領選挙以降だろうか、社会の分断がとかく強調されるようになった。日本においてそれがどこまで顕在化しているかどうかは私にはわからない。しかし、少なくとも80年代にフェアネス・ドクトリンを廃止した米国のその後の状況を踏まえる限り、放送局は支持する政治的な見解や政党を明確にしており、それが視聴者による放送局の選局につながっているように見える。そうであるならば、ネット上で自分の関心や考えを増幅させ、意見の過激性が影響力のある有意なものとして捉えられるおそれがあるこの時代にこそ、複数の見解が偏りなく伝えられる番組を視聴者が共通して見ることができる日本の放送制度は、社会の分断を防ぐ防波堤になり得るかもしれない。第三者性を徹底した民間の機関が放送の規律に関わるという世界的にもユニークな存在であるBPOも、放送界が望む限り、その営みに併走していく覚悟で活動を続けていく。

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