【onlineレビュー】輿論主義の復権のために 佐藤卓己著『あいまいさに耐える――ネガティブ・リテラシーのすすめ』を読んで 

飯田 豊
【onlineレビュー】輿論主義の復権のために 佐藤卓己著『あいまいさに耐える――ネガティブ・リテラシーのすすめ』を読んで 

メディア史研究の第一人者である佐藤卓己は、近著『あいまいさに耐える――ネガティブ・リテラシーのすすめ』(岩波新書、2024年)のなかで、情報過多の現代社会に求められるのは「ネガティブ・リテラシー(消極的な読み書き能力)」であると断言する。ネガティブ・リテラシーとは、あいまいな情報を受け取ったとき、あいまいなまま留め置き、その不確実性に耐える思考のあり方を意味する。佐藤は本書で、過去15年のあいだに執筆した時評などを紹介しながら、「ネガティブ・リテラシー」の重要性に思い至った思考のプロセスを丁寧に紐解いている。

インターネットに溢れかえる情報を、必要以上に読み込まないでやり過ごし、不用意に書き込まないという姿勢は、大災害などの非常時に推奨されることは珍しくない。評者も東日本大震災の直後、「ソーシャルメディアでむやみに冗舌になるべきでない」という趣旨の時評を、新聞などに書いたことがある。それに対して佐藤は、メディア流言という観点にとどまらず、「輿論(よろん)主義」の復権のためにこそ、ネガティブ・リテラシーの醸成が必要であると説く。

というのも、佐藤は長らく、公的意見(public opinion)を意味する「輿論(よろん)」と、大衆感情(popular sentiments)を意味する「世論(せろん)」を、改めて使い分けるべきであると提唱してきた(『輿論と世論――日本的民意の系譜学』新潮選書、2008年)。輿論/世論は明治期まで、それぞれ異なるニュアンスを有していたが、大正期における大衆政治状況、さらに1930年代以降の戦時体制下において、両者の区別は曖昧になってしまった。そして敗戦後の1946(昭和21)年、「輿」が当用漢字表で制限漢字に指定されたことで、活字メディアでは「世論(よろん)」に一本化されたのである。

ウィルバー・シュラムのニュース論を踏まえて、佐藤は次のように整理する。世論とは「快楽原理にもとづく即時報酬」型の期待であり、人びとの直感的思考の総和に過ぎない。たとえば、内閣支持率など世論調査報道によって加速化する政治を、佐藤は「ファスト政治」と呼んで批判している。マスメディアの世論誘導を批判する論拠にもなる「ネット世論」も、普通の生活者がさまざまな政治案件を熟慮した成果とは考えられない。それに対して、輿論とは「現実原理にもとづく遅延報酬」型の期待である。公に時間をかけて議論された意見は時間の経過に耐えられるし、曖昧だった情報も時間がたてば、自ずと真偽がはっきりしてくることが多い。

つまり、輿論/世論を識別する基準となるのが「時間耐性」であり、それゆえ「批判的思考(critical thinking)」とは「耐性思考」にほかならない。世論(空気)を批判する足場として、輿論(意見)を取り戻すための思考の枠組みこそが、ネガティブ・リテラシーというわけである。

以上のとおり、現代社会への即応性を意識したという本書の議論は、きわめて明快である。佐藤によれば、ネットは最強の即時報酬メディアであり、総合雑誌や新書などは、遅延報酬的なメディアを目指すべきであるという。それでは放送はどうあるべきだろうか。

佐藤は本書のなかで、放送については多くのことを論じていないが、政治の「世論調査主義」と放送の「視聴率至上主義」は、いずれも観客(オーディエンス)の「思考」ではなく「嗜好」を計量するシステムであるという点で、コインの裏表であると厳しく批判している。放送の同時性や速報性は、即時報酬メディアとしてのネットのあり方に大きな影響を与えている半面、新聞や雑誌が先行して培ってきた活字ジャーナリズムとの連続性もあるので、中間的な存在といえるだろう。それゆえ現代の放送人には、難しい舵取りが求められている。

ちなみに「ネガティブ」という言葉は、日常語としては否定的なニュアンスをともなうので、「リテラシー」との結びつきに違和感を抱く方が多いかもしれない。しかし、本書でも参照されているとおり、最近は「ネガティブ・ケイパビリティ」といった概念も広く知られるようになってきた。ケイパビリティ(能力)はポジティブ(積極的)であることが普通だが、ネガティブ・ケイパビリティとは、ものごとを宙吊りにしたままで抱えておく能力のことで、ネットに蔓延する陰謀論、あるいはアテンション・エコノミーの弊害などから、個人が距離を措くための方法としても注目されている(谷川嘉浩・朱喜哲・杉谷和哉『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる――答えを急がず立ち止まる力』さくら舎、2023年)。

さらに付け加えておくと、「ポジティブ・フィードバック」というと聞こえはいいが、制御工学においては、たとえば音響機器のハウリングのように、状態が安定しない不均衡なシステムにおける作用を意味する。ネットの炎上現象もこうした制御不能状態に喩えることができよう。逆に「ネガティブ・フィードバック」は、たとえばエアコンや給湯器のサーモスタットのように、過去の状態を踏まえて未来の軌道を修正する安定的なシステムに用いられている。

現代社会に求められるのは、個人のリテラシーのみならず、安定的な言論を担保するための、ネガティブ・フィードバック機構を備えたプラットフォームといえるだろう。佐藤はそれを「社会のセイフティネット」に見立てているが、放送はその役割を果たすことができるだろうか。


あいまいさに耐える――ネガティブ・リテラシーのすすめ
佐藤卓己著 岩波新書 2024年8月20日発売 1,012円(税込)
新書判/212ページ ISBN:978-4-00-432026-5

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