少年事件の実名報道一部解禁 目指すべきは情報の抑圧ではなく、偏見と不寛容の克服

澤 康臣
少年事件の実名報道一部解禁 目指すべきは情報の抑圧ではなく、偏見と不寛容の克服

「10歳のロヘリオ・トレスは非常に知性的で勤勉で周囲を助ける人だった」「やはり10歳のマイテ・ロドリゲスは、母親のアナによると海洋生物学者になるのが夢で、テキサスA&M大学に行きたかった......」。

米テキサス州の小学校で今年5月24日、男が児童19人、教師2人を射殺した。米CNNテレビは事件を詳報するとともに子どもたちの名前と顔写真を静かに写し出し、短い人生と人柄を伝えた。ニューヨークタイムズは一面の最上段に犠牲者たちの顔写真を大きく掲げた。「FACES OF A TOWN'S OVERWHELMING LOSS (街を覆う喪失、その顔)」というのが見出しである。

地元ウバルデ市は事件発生後、犠牲者たちの氏名と顔写真を市公式ウェブサイトに一時掲載し、遺族への支援寄付を呼びかけた。現場のロブ小学校正門前には犠牲者の名前を記した21の十字架が並び、多数の花束が置かれた。

犯罪や災害、戦争など社会的な変事に直面したとき、人々は何が起きたかという情報を共有し、対処する。傷つき苦しみの中にある人々を報道を通じて知り、小さな援助の行動に移す人たちも少なくない。犠牲者のことを伝える報道はそうした市民たちをつなぎ、「自分には関係ない」とは言わせない役割がある。

人は、名も顔もある「ひと」に心を動かされる――米国の心理学研究者たちの実験では、二つのグループのうち一方はアフリカ各国の食糧不足データを詳しく数字で知らせ、他方は一人の少女が飢餓に直面しているというストーリーを名前や顔写真とともに知らせたところ、後者がアフリカの子どもたちに倍の寄付をしたという。

日本でも、ジャーナリスト伊藤詩織の手記『Black Box』によれば、伊藤が記者会見に出て性暴力被害を訴えようと決意した背景に、電通社員で過労自殺した高橋まつり、中学校でいじめに苦み命を絶った葛西りまの遺族の訴えがあった。それを受け止めた伊藤は「私も『被害者A』でいてはいけない」と勇気づけられたのだと明らかにしている。

人の心を動かし、行動を勇気づけるというだけではない。実際に何が起きたかの確認は、固有名詞という検証タグが可能にする。「関東地方で10代の女性が殺害され、事件当時20代の男性が有罪判決を受けた事件」ではなく、埼玉県狭山市で中田善枝が殺害され、石川一雄が逮捕・起訴された事件と特定されてこそ、狭山事件の社会的な関心と議論を可能にし、多くの市民による調査と思考を促し、そして、部落差別がかかわる冤罪ではないかとの検証が現在に至るまで長く行われてきたのではないか。

「匿名で報道できることもある」としか
言えないはず

市民誰もが担う事件の検証や議論を、英語でパブリック・スクルーティニーと呼ぶ。スクルーティニーを訳せば「検証」だが、「詮索」めいたニュアンスもある。広く大衆の目で事件を吟味し、背景にある問題の発見に期待する。報道の役割を「人々が自由となり、自治が出来るための必要な情報を提供する」(ビル・コヴァッチ、トム・ローゼンスティール著『ジャーナリズムの原則』第4版)――とする定義を地で行く考えといえる。

その意味では、捜査が不適切ではと論議される事件の担当検事、政治資金問題に関係した政治家秘書や企業幹部らのような人物が「何となく匿名」になる現在の報道慣行は深刻な問題と言わざるを得ない。1950年代の複数の不適切捜査が批判を受けた静岡県警警部・紅林麻雄の名が司法史に残るのは過去の報道のおかげだが、現代の報道現場はこれを行い得ないのか。当事者の主張もフェアに取材・報道する限り、法的にも社会的にも問題化するとは考えがたいのにである。

匿名でも報道がまるで成り立たないというわけではない。ケースによっては匿名化せざるを得ないものはある。だが実名を欠けば情報の質は異なるものになる。「匿名で報道できる」のではなく「匿名で報道できることもある」としか言えないはずである。

「忘れられる権利」のために
「歴史に穴を開ける」のか

これら刑事司法の検証をいうとき、最も欠かせないのは容疑者や被告の情報だ。表現の自由を守る国際人権団体「アーティクル19」上席法律顧問の弁護士、デービッド・バニサーはかつて私の取材に次のように述べた。

「出来事の大半は人名を記すことがとても重要だ。特に誰かが有罪になったという場合はそうだ。司法がオープンであることは非常に重要な原則で、誰が逮捕されたり有罪判決を受けたりしているかを知らなければ、例えば起訴されるべき人が起訴されず、間違った人が起訴されていても知ることができない。刑事司法の根幹にかかわる」

ネット時代には複雑な問題もある。人名を検索すれば、本人の望まない古いニュースがいつまでも引き出せる。これへの対処として、欧州では欧州司法裁判所による「忘れられる権利」が知られる。2014年5月、過去の不動産競売情報がいつまでも新聞のネット版で見つけられることに閉口したスペインのマリオ・コステハ・ゴンザレスが裁判で争った結果、グーグルで彼の名を検索してもこの情報が出ないようにする措置が可能になった。

この司法判断も新聞社のアーカイブから過去記事を削除することまでは認めていない。プレスの自由が尊重された形だが、それでもメディアは反発し闘っている。いかに切実な理由があるとしても「歴史に穴を開ける」ことへの警戒感が強い。英高級紙ガーディアンは、過去記事は歴史の記録であり削除による穴だらけでは信用を失うと批判し、BBCに至っては忘れられる権利によりグーグルで出てこない記事のリンク集ページを新たに作るという対抗手段に出たのである。

一方、米国には欧州司法裁の「忘れられる権利」が直接適用されることはないが、報道メディアが過去記事を削除するかどうかの判断を迫られる場合が出てくる。いくつかの新聞社は過去記事の削除や匿名化を認めるが、ごく例外的な措置としている。AP通信は2021年6月「微罪を匿名で報じる」と発表して注目されたが「微罪」の範囲は限定的だ。そもそも暴力犯罪は含まないといい、一例として挙げたのは「泥酔してバーカウンターに上がって全裸で踊り、逮捕」。日本では報道自体しそうにない。逆に「動物園に侵入してライオンに冷やかしの言葉を投げていた」と不法侵入容疑で逮捕された女性の記事では実名を伝えている。

目的は検証と記録

事件の加害者側の報道は制裁ではなく、検証と記録が目的だ。報道に伴うダメージは実名匿名を問わずしばしば深刻で、報道の職にある者は常に自省しなければならない。それでも報道はダメージを目的とはしない。目的は検証と記録であり、市民の目と議論により民主主義の力を起こすことだ。

だから少年法改定による少年事件の実名報道一部解禁も、少年犯罪「厳罰化」と混同されてはならない。いかなる刑事裁判であれ、被告が誰であるかという情報は、先の国際人権団体「アーティクル19」弁護士のバニサーがいうとおり、議論と検証の質を左右する。重大事件の少年被告は「悪い奴だから」開示されるべきなのではない。重刑という深刻な権力行使の可能性があるから、秘密裁判、秘密処罰を避けねばならないし、最高裁判例の名にもなった永山則夫のように社会史の重要市民名として公然と歴史に記録されなければならない。目指すべきは情報の抑圧ではなく、偏見と不寛容の克服、そして更生支援のはずである。これは過度な理想に聞こえるかもしれない。確かにそうかもしれない。それでもなお「どちらが理想か」はおさえておく必要がある。

今回報道が合法化されたのは①18歳以上の被告の②刑事裁判への起訴後――に限定されている。それでも報道を自粛するのは特別な判断となるだろう。

報道は「悪人に関するお触れ」ではない

実名データを含む真正情報を市民が手にすることをどこまで忌むべきか。実名を知ればハラスメントや偏見に悪用する者がいる。それを市民の本性とみるべきか。だが、市民は情報を適切に扱えないとみることは本来、市民の知性を否定し、つまり民主主義の原理そのものを否定することではないだろうか。裁判で報道を「社会的制裁」と指摘することが今なおあるが、ジャーナリズムの役割を歪める侮辱とさえ思える。最高裁がツイッター上の容疑者実名情報の削除を認めた6月24日の判決で草野耕一裁判官が発表した補足意見が典型だ。容疑者実名報道の機能を①加害者制裁、②さらなる加害行為の抑止、③市民が「他人の不幸を喜ぶ」ため――の3点とする独特の見解である。実名情報は市民にとってはバッシングのネタでしかなく、適切に扱えるのはエリートだけだと受け取れる。

ジャーナリズムは市民に対し、こういう姿勢をとるべきだろうか?

報道は「悪人に関するお触れ」ではない。民主社会でのパブリック・スクルーティニー、つまり大衆的検証が目的だ。先に挙げた捜査関係者や裁判官、政治家秘書にしても「悪質だから制裁として名挙げする」のではない。公共の出来事、歴史記録のキーパーソンとして、有利な事情も含め、あくまでフェアに書くしかない。

ニュースの情報を用いてSNSやまとめサイトがひどい言説をなし、関係者を不当に攻撃し、傷つけることは深刻な問題だ。だから情報自体を返上すべきか。記者の取材のしかたにずさんで無思慮な行動があることも痛苦に受け止め改善すべきだ。だから取材はやめ、当事者側の広報意思に委ねるべきか。

市民と情報を考えるとき、先進国で今なお死刑を存続する2つの国、米国と日本の違いを思う。米国で死刑の執行予定は公開され、弁護側の抵抗手段が尽きて後に執行される。執行に記者も立ち会え、その状況は報道される。これは野蛮な公開処刑か、民主的な情報開示か――その違いは外形にはなく、運用者の市民観、市民の役割をどうみるかではないか。「市民に知らせれば死刑囚を嘲笑しエンタメ化する」とみるのが公開処刑、「市民が権力行使を監視し、死刑の是非もよく議論できる」とみれば情報開示である。

市民が知れば危ないのか。市民が知らなければ危ないのか。

実名報道をめぐる議論の底には、報道と民主主義そのものの意味を貫くこんな問いもまた、横たわっているように思える。

文中、敬称略

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