民放ジャーナリズムの再生に向けて

山腰 修三
民放ジャーナリズムの再生に向けて

民放ジャーナリズムの「危機」が指摘されて久しい。とはいえ、その起源、あるいは原因を特定のものに絞ることは難しい。メディア環境の変化、ライフスタイルの変化、あるいは政治的、経済的文脈など、複雑な諸要因が結びつきつつ徐々に進展してきたと見なすべきである。

ただし、「危機」の進展の背後に存在するいくつかの傾向を見出すことは可能であり、本稿ではとくに「企業経営の論理」が前景化し、「公共性」が失われてきた点に注目したい。というのも、この傾向は民放ジャーナリズムに留まらず、社会全般の動向とも密接に関連しているからである。
 
このように捉えてみると、民放ジャーナリズムの「危機」の起源の一つは過去30年間の「ニュースの娯楽化」に求めることができよう。ニュースの娯楽化の日本的展開の一つの系は、『ニュースステーション』を契機とする民放の報道番組の発達史である。そしてもう一つの系がワイドショーで政治、外交、社会問題を積極的に扱うようになってきたことである。二つの系は相互に関連しながら21世紀初頭の「小泉劇場型政治」でピークを迎える。

この傾向を「危機」の起源と論じることは一見奇妙に思える。むしろそれは民放ジャーナリズムの「黄金期」だったのでないか、というわけである。「ニュース」は民放にとって「稼げる」コンテンツになった。社会にとっては「ニュース」がポピュラーなものになった。「分かりやすく」「面白く」「共感を生む」ニュースに対するニーズはますます高くなる。需要と供給のサイクルはうまくいっていたように見える。

しかし民放ジャーナリズムの「危機」は表面には見えない、より深い次元で進展してきた。そうした傾向を適切に捉えるために、「ニュース文化」と呼ばれる概念を参照することにしたい。ニュース文化とは「解釈共同体としてのジャーナリズムのエートスを形成する共有された規範、価値、信念、期待、慣習、戦略、象徴体系、儀礼」を意味する*1。ここで言う「解釈共同体」とは、「主要な公的出来事や争点に関する言説および集合的解釈の共有を通じてジャーナリズムの間で生み出される共通性を意味する用語」を指す*2。つまり、ニュースの制作をめぐる日常的な実践――取材、編集、他紙や他局も含めたニュースの参照、同僚との会話や共同作業、所属する組織や業界に関する知識など――を通じて、ジャーナリストとしての専門文化やアイデンティティだけでなく、「ニュースとは何か」「ジャーナリズムとは何か」といった認識の枠組みが共有されていることを説明する概念である。そしてこれは必ずしも明文化されたものではなく、ジャーナリストたちの日常的な実践の積み重ねで維持され、あるいは変化するものと理解される。

ニュースの娯楽化と「企業経営の危機」

このニュース文化を手がかりにすると、ニュースの娯楽化が民放ジャーナリズムに何をもたらしてきたのかが見えてくる。第一は、ニュースが「企業経営の論理」によって評価されるようになった、ということである。「良いニュース」とは何か、という評価軸はこれまでは組織、あるいは業界内のジャーナリストの間で評価され、形成されてきた。それはしばしば公共の利益に関わるものと見なされていた。しかし、ニュースの娯楽化は視聴率によって、つまり市場原理によってニュースが価値づけられるようになる状況をもたらした。ひとたびニュース文化に「企業経営の論理」が広がれば、ニュースの公共的価値は失われ、容易にコストカットやアウトソーシングの対象となる。

第二は、「ニュース」と「ニュースではないもの」との境界線が曖昧になったことである。ニュースの娯楽化に伴ってセレブリティ、エンタメ、グルメや健康など、ニュースの範囲は拡張した。究極的には「分かりやすく」「面白く」「共感を呼ぶ」コンテンツであれば何でも「ニュース」になりうる。また、ワイドショーを中心にした「コメント」の文化は、それが誰であれ、評論的な振舞いをニュースの構成要素に組み込んできた。それらは「ニュース」と「ニュースではないもの」の中間に存在する「ニュース的なもの」とも呼ぶべきものである。

第三は、「プロフェッショナル」と「アマチュア」との境界線の揺らぎである。デジタル技術の発達、とくにスマートフォンの普及は事件や事故の現場にたまたま居合わせた一般の人々が「衝撃的」あるいは「面白い」映像を撮影し、動画をアップロードすることを可能にした。一連の映像はニュースの娯楽化とも親和性が高く、民放のワイドショーやニュース番組ではこうした動画を積極的にニュースのコンテンツとして扱っている。この手法はコストをかけない番組作りにつながり、ニュース制作の専門的な文化の価値は相対的に低下することになる。

以上のように、ニュースの娯楽化はニュース文化を大きく変容させてきたと言える。こうしたニュース文化の変化はテレビだけに限らないが、民放に最も顕著に表れている。この場合、三つの中で最も重要なのが「企業経営の論理」であり、この論理が結節点となって残りの二つを結びつけているという構図になる。

今日この三つの傾向は、インターネット上でも広がっている。インターネットもまた、「企業経営の論理」を基本原理として構成されている。例えばアテンション・エコノミーに基づいてニュースはクリック数によって評価され、マネタイズされる。ポータルサイトではあらゆるジャンルの情報が「ニュース」としてフラットに配列され、「まとめサイト」やユーチューブでのニュース解説、セレブリティのSNSでの発信、あるいは広報までもがユーザーには「ニュース」と見なされる。一般の人々が撮影した衝撃的な事件や事故の動画はソーシャルメディアで瞬時に拡散・共有される。一連の状況が民放のコンテンツとそう変わらないものだとするならば、あえてテレビニュースを見る必要はなくなる。広告をテレビで打つ必要もなくなる。結局、こうした傾向を加速させたのは民放自身である。つまり、ニュースの娯楽化が民放ジャーナリズムの今日的危機の基盤を形成しているのだ。

無論、ニュース文化にとって最も深刻なのは、これまでの伝統的なジャーナリズム実践の正当性もまた低下する点である。時間とコストをかけたニュースの制作、あるいは権力監視や社会問題の発掘が必要なものと見なされなくなる。つまり、ニュースの公共性が正当に評価されなくなっている。しかし、それをもたらしたのは、民放ジャーナリズムの実践者たち自身である。いわば、日々「ニュース」あるいは「ニュース的なもの」を作り続ける中で自らニュース文化を掘り崩していたことになる。

ジャーナリズムの「危機」

それでは民放ジャーナリズムを再生させるにはどうしたらよいだろうか。本稿の議論に基づくならば、ニュース文化の中心原理を「企業経営の論理」から「公共性の論理」に位置づけ直す、ということになる。しかしその道のりは困難なものに見える。恐らく業界内部からの反論もあるだろう。インターネットのコンテンツに負けない「面白さ」「分かりやすさ」「共感」こそが必要だ、という意見や、私企業である民間放送がジャーナリズムの公共性を犠牲にしても利益を追求するのは当たり前だ、という意見である。「公共性」よりも重要な価値がある、あるいはなぜ民放が「公共性」を担う必要があるのか、というわけである。

民放ジャーナリズムの公共性について理解が広がらない要因は、より広範な社会の中にある。まさに民放ジャーナリズムでニュースの娯楽化が進展した時代と並行して「企業経営の論理」が社会を覆ってきたからである。ここで民放ジャーナリズムの「危機」は社会全般の公共性の危機とリンクする。

今日、「企業経営の論理」はいわば社会の「常識」となった。この論理は私たちの日常生活の中にも、そして政治の世界にも深く浸透している。政治の世界で叫ばれてきた「改革」とは「企業経営の論理」を政治や行政、福祉、教育や医療の現場に取り入れるべきだ、という主張に他ならない。最近「稼げる大学」を作るための改革という政府の方針がソーシャルメディアで話題になったが、この発想と「稼げるニュース」のための組織改革という発想は地続きである*3。さらに周知の通り、公共放送であるNHK改革の方向性でさえ、「企業経営の論理」が大きく影響を与えてきた。こうした風潮の中で、民放を含めたジャーナリズムの世界にもますます「企業経営の論理」が要請されたのは当然の帰結だったわけである。

言うまでもなく、「企業経営の論理」は社会にとって不可欠である。問題はそれが支配的価値となり、他の考え方や価値観を排除している点にある。いまや「企業経営の論理」は公的な意思決定の基本原理となり、公共性に関わる諸制度を弱体化させ、さらには政治的無関心や冷笑主義を活性化させている*4。これはポストデモクラシーと呼ばれる民主主義の現代的危機に関する議論だが、ジャーナリズムの衰退、そしてジャーナリズムに対する不信の高まりもこうした傾向と無縁ではない。

ニュース文化を再構築する

ここから民放ジャーナリズム再生のための道筋も見えてくる。それは公共性の価値を取り戻すより幅広いプロジェクトと連携しながらニュース文化を再構成することである。本稿ではその試みの一例として、ニュース文化を「コモンズ」と見なすことを提案したい。つまり、ニュース文化は公共放送、民放を問わず組織の内部にあるものではなく、業界、あるいはジャーナリズムの世界で共有された公共財なのである。それは「良いニュース」をつくるために不可欠なノウハウや技術、人的ネットワークといった資源を提供するが、コストをかけて維持しなければならず、一方的に収奪し続けると枯渇する。したがって、この公共財をいかに「共同管理」するかが「良いニュース」を作り続けるために問われることになる。

ニュース文化を「コモンズ」と見なすことは、ニュース制作に新たな「協働」をもたらすことも期待される。「コモンズ」としてのニュース文化は既存のニュースメディア組織や業界の独占物ではなく、社会に開かれたものである。さまざまな組織や個人が情報(つまりニュース的なもの)を発信できる時代に、それをニュース制作のコストを下げるためではなく、より良いニュースをつくるために活かすべきである。協働のパートナーはインターネット上の新しいメディア、メディア以外の組織や個人でも、あるいは既存のニュースメディア同士でももちろん構わない。既存の枠を超えてニュース文化を広げることは民放だけでなく、インターネット上のニュースの質的向上をもたらし、その帰結として一般社会で「良いニュース」とは何かを共有することにもつながりうる。

同時に、「コモンズ」としてのニュース文化はジャーナリストやニュースメディアにこれまで以上に「説明責任」を要請することになる。つまり、自らが制作するニュースがどのように公共財としてのニュース文化を活用しているのか、そしていかなる意味においてニュース文化の公共的価値に寄与しうるのかに関する説明である。それは「良いニュース」を制作するためになぜコストを割くのかを組織内外に説明することでもあり、さらには「良いニュース」とは何か、「良いニュース」とはどのように作られるものなのかを社会に対して説明することも意味する。

以上のようにニュース文化を「コモンズ」と捉えることは、民放のジャーナリズム実践に関する理解やそのニュースの質を評価する基準を組織、業界、そして社会全体に広げていくというプロジェクトである。民放ジャーナリズムが良い成果を示し、組織、業界や社会がそれを適切に評価できる文化が育つことでニュースの質の向上と、民放の企業や業界としての信頼性の向上との好循環につながっていく。

民放だからこその構想を

無論のこと、民放ジャーナリズムの場合、ニュースを作ることが「企業経営の論理」と何らかの形で結びつくことは避けられない。それは大前提であるが、本稿で強調してきたように、ニュース文化を「企業経営の論理」だけで捉えることは最終的に「コモンズ」としてのニュース文化を枯渇させ、ニュースの質の低下につながる。したがって、「企業経営の論理」と「コモンズ」としてのニュース文化とを共存させるプラグマティックな戦略が求められることになる。

とはいえ、民間企業が「コモンズ」としての諸資源を活用しながら営利を追求するうえでSDGsのような――それ自体、さまざまな評価があるものの――公共性に関するプロジェクトを業界内で、あるいは業界を超えて取り組んできたように、それは決して非現実的な試みではない。いずれにせよ、まずは民放にとって「ニュースとは何か」「ニュースを制作するとはどういうことか」を改めて考えることから始めることが肝要である。そこから民放だからこその新たなジャーナリズムの構想が可能となるのではないだろうか。


¹ Zelizer and S, Allan (2010) Keywords in News & Journalism Studies, Open University Press, P. 86.
² 同書、P.59.
³ 「「稼げる大学」へ外部の知恵導入 意思決定機関設置、来年法改正」時事ドットコム、8月26日配信。
⁴ W. シュトレーク (2016) 『時間かせぎの資本主義』みすず書房、P.96。

最新記事