【メディア時評】メディアの「強者性」を考える 記者は加害者になっていないか 社会の複雑さと向き合い、耐えて

小松 理虔
【メディア時評】メディアの「強者性」を考える 記者は加害者になっていないか 社会の複雑さと向き合い、耐えて

個人的な体験で恐縮だが、少し前に参加したオンライントーク番組に寄せられたコメントから、メディアの持つ「強者性」について考えてみたい。先日、フリーランスの論者が語り合うイベントに参加した。配信画面のモニターには視聴者からの和やかなコメントが表示されていたのが、突如、思いもよらぬコメントが流れた。「小松さんはリア充で陽キャだから信用できない」というものだ。

表面上はただの「やっかみ」とも言え、ネットだからいろいろな反応はあるだろうとあまり深く考えずに流したのだが、その後に配信した番組でも「小松さんが発信するローカル情報はキラキラしすぎている」「東京一極集中への抵抗だとしても、抵抗するだけの余力がある人間にしかできないのではないか」という意見が寄せられ、頭を抱えてしまった。筆者は小さな個人事業主に過ぎないしバックボーンもない。また、福島県いわき市を拠点に、地域をポジティブに捉え直してきたのは、それが震災や原発事故を考え続けるきっかけになると思ったからだ。だから「結局リア充じゃないか」と言われると、返す言葉がなくなってしまう。

しかし、それでも敢えて自分の強者性、マジョリティ性について思い巡らせれば、別の対応も見えてくる。テレビ局からキャリアを始めたという点で筆者は恵まれた環境にあったのだろうし、そもそも「太い」実家のおかげで大学に通うことができたのかもしれない。また、今ほどジェンダー議論が盛んではなかった20年前、テレビ局時代の自分に、今ではハラスメントと一蹴される言動がなかったといえばウソになる。ハラスメントに無自覚だった自分には強い特権性や強者性が確実に備わっていたのだと気付き、議論を深めることができた。前述のコメントに「自分だってつらい、自分だって弱者だ」と反論していたら、そうは思えなかっただろう。

思えば、似たような批判は筆者個人にだけでなく、メディア企業に対しても寄せられていると感じる。どれほど弱者に寄り添った番組を作ろうと、結局あなた方は特権階級じゃないか、部外者だ、きれいごとだ、欺瞞だ。そんな批判に聞き覚えがある人は少なくないだろう。もちろん一笑に付すこともできるだろうが、敢えて引き受け、そこからあと一歩、自省的に考えてみてもいいと思う。なぜなら、そうした批判を引き受けることで、これまでとは違う部分、自分たちの強者性に対する無自覚にも光が当たるからだ。それに、メディアが描きがちな一方的な「弱者/強者」の切り分けが、物事をわかりやすく伝えるのではなく、複雑さから目を背ける手助けになっているのでは、と気付くことができるかもしれない。自分をいったん強者、加害者として位置付けてみることで、見えることがあるはずだ。

メディアが持つ強者性から目を背けず、むしろそれを反省材料として提示することで、さらに深く取材対象に肉薄し、課題の複雑さに迫ろうという試みもある。例えば、NHKのウェブ特集「私と故郷と原発事故」(4月27日)は大変読み応えがあった。福島県浪江町出身の水谷宣道ディレクターが故郷を取材するも、ほとんど取材を断られ、友人から「結局お前はよそ者」とまで言われてしまい思い悩む。なんとか番組は完成したが、満足できずに2回目の取材を敢行。その際の悩みや自分たちの意識の変化などを、現地の声とともに掲載している。同行したカメラマンの「(被災者に)安直な発想で質問した自分を恥じた」というコメントが大変印象的だった。ここまで虚心坦懐に制作者の内心が語られるのは珍しい。

この記事が印象深いのは、「被災者」の声を一方的に伝えるものにせず、ディレクター本人がまさに「自分ごと」として書いたことで、結果として現地の複雑さが伝わり、メディアの加害性、特権性にも光が当たっている点だ。シンボリックな被災者や、激烈な体験をした当事者は登場しない。出てくる人の多くは、ディレクターの友人やその関係者など身近な人たちだ。しかし、身近な人だからこそディレクターは悩む。そしてそこに、被災地の複雑さ、当事者と非当事者の境界線を引くことの難しさを読み取ることができる。こうした自己開示の手法は何度も使える手ではないとは思うが、まだまだこんな伝え方もできるのだ。
 
メディアは、往々にして被害者の声を代弁しようとする。しかし、では自分たちは一度たりとも加害者になったことはなかったか。記者やディレクターは、誰かに差別的な目線を向けたことはなかったのか。これまでの放送・取材を検証し、振り返りながら、悩みや葛藤、反省なども含めて語ることで、他人ごとではなく自分ごととして伝える機会にならないか。そこでは、わかりやすい「被害/加害」の関係をずらしたり、別の角度からも光を当ててみることが求められるだろう。自分という存在を開いて、加害と被害を往復し、葛藤しながら社会の複雑さと向き合っていく。そのときに必要なのは、物事をわかりやすく伝えること、ではなく、社会全体で難しさに耐えていくことではないだろうか。難しさに耐える力が、放送には残されているはずだ。

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