【メディア時評】オリパラとコロナ報道の両立 矛盾に及び腰だったメディア 画づくりや編成に工夫も

田中 幹人
【メディア時評】オリパラとコロナ報道の両立 矛盾に及び腰だったメディア 画づくりや編成に工夫も

6月18日。筆者ら「新型コロナ専門家有志の会」は日本民間放送連盟に「オリンピック・パラリンピックの際の感染対策を涵養する報道様式についての要望書」を送付した。この文書は次のように結ばれていた。

「皆さまにおかれましては、この1年以上のコロナ禍のなかでメディアの皆さんが培ってきた伝えかたの工夫や、これまでにないパンデミック下での報道スタイルの発明を通じ、祝祭の中での感染対策という矛盾に正面から向き合い、公器の役割を果たして頂きたく存じます。」

いささか大仰かもしれない。しかしこの背景には、テレビ研究を通じて蓄積された学術的知見がある。20世紀後半に民間テレビ放送が世界的な影響力を持って以降、メディアの媒介する社会現象は「メディア・イベント」として研究されてきた。このなかでオリンピックは典型的な「競争型」メディア・イベントとして、そして疫病やテロといった災厄もまた、メディアが主催する「破滅型」のメディア・イベントとして分析されてきた。

翻って現在。競争型のオリパラ報道と、破滅型のコロナ報道――異なるメディア・イベントの同時開催は、どう考えても二兎を追う試みである。この難事を前に、私たちはメディアに警告を発せざるを得なかったのだ。この呼び掛けに一部メディアは敏感に反応し、画づくりや編成においてさまざまな工夫をしていただいた。現場の人たちはそれぞれに、この祝祭と警告を媒介する矛盾に葛藤を抱えていただろう。それを社内で議論するきっかけとして要望書を利用していただけたとしたら、ありがたいことである。

しかし、総体としての筆者のオリパラ報道への印象としては、「矛盾に向き合うに及び腰であった」と言わざるを得ない。放送人の多くも、矛盾を自覚しつつも、手探りのまま「何とか乗り切った」というのが本音ではないだろうか。例えばマラソンの沿道や大会会場からの中継。通常なら大事な背景である「熱狂する群衆」という映像は厄介ものだった。結果として、興奮する群衆は心なしか控えめに映され、報道番組では「沿道には応援の市民が集まり」「警備ボランティアの呼び掛けは無視された」と淡々と「事実」を指摘する構成に逃げざるを得なかったのではないか。

結果論としてオリパラ前後の感染状況がさほど悪くなかったことで、反省はますます難しくなっている。感染傾向を示す実効再生産数は、オリンピック開催前後から減少傾向に向かった。これを政治家は対策が奏功したと自画自賛し、放送人からも「メディアのせいで感染拡大したと言われず良かった」との声が聞こえてくる。しかし、自分たちの報道こそがこの結果をもたらしたのだ、と自信をもって語れる放送人はまずいないだろう。

筆者の研究チームでは、SNSやアンケートのデータ分析を続けている。感染拡大にブレーキをかけた主要因はワクチンの普及と推測されるが、オリパラ開催が決定して以降、市民が自発的に警戒感を強めた結果でもありそうだ。政治もメディアも愛想を尽かされたとも言えるが、同時にここには「放送はどうあるべきだったか」のヒントもある。もとより国内外の報道を比較分析している身として、かねがね日本のメディア文化は「褒める」ことが苦手だと感じている。今回であれば、メディアは逸脱行動をする市民に困惑してみせるよりは、オリンピックの熱狂と感染対策を両立している市民を、もっと褒める戦略もあったと思える。

そしてもちろん、「異なるメディア・イベントの同時開催」という矛盾に正面から向き合う方法も真剣に検討すべきだっただろう。オリンピック期間中でも大地震があったならばL字型画面放送をしたはずだ。コロナにL字放送は大仰すぎるとしても、感染状況や感染対策の情報を、競技中継の下に流し続けることもできたはずである。門外漢の私が思いつくようなことは現場では検討されたに違いない。だからこそ、それを押しとどめたのは何かを振り返ることが求められている。

コロナ禍はまだ続くが、今までのところ諸外国に比して日本の感染者数は低く抑えられている。ロックダウンや罰則などの強権的な政策なしで成果をあげているのはすごいことであり、日本の市民はもっと褒められても良い。しかし強制力がない隙間が「自粛警察」のような市民の相互監視で埋められていることを思うと、手放しの賞賛も難しい。

結局のところ、オリパラでメディアが直面した矛盾は、世界が直面し続けている大きな課題の一部分に過ぎない。これからは、コロナを受容する社会に向け、矛盾に満ちた複雑な議論が次々に立ち現れるはずである。いま一度、オリパラでできたはずの工夫に思いを馳せ、今後に活かしていただくことをお願いしたい。

最新記事