【関東大震災100年とメディア①】再考・災害時のメディアの役割とは

武田 徹
【関東大震災100年とメディア①】再考・災害時のメディアの役割とは

2023年9月1日、関東大震災が起きてから100年を迎えた。「民放online」では、災害とメディアの関係に着目し、災害時のメディアの役割や災害時に広がるうわさやデマ、関東大震災時の手記から見えるもの――などについて取り上げる。今回は、災害時のメディアの役割について、専修大学の武田徹教授に寄稿いただいた。


今年もまた9月1日の防災の日が巡りくる。今年は関東大震災が発生してちょうど100年目の節目ともなる。過去の災害に思いをはせ、あらためて防災体制を省みる必要性は言うまでもない。

だが、ひとつ指摘しておきたい。1960年に「防災の日」の創設が閣議決定された時、強く意識されていたのは前年9月26日に紀伊半島に上陸、東海地方中心に5,000人を超える犠牲者を出した伊勢湾台風だった(水出幸輝『<災後>の記憶史』人文書院)。しかし防災の日はかねてより関東大震災記念日とされていた9月1日に制定されたため、伊勢湾台風を思い出し、水害対策を検証する習慣は定着しなかった。

「天災は忘れたころにやってくる」という物理学者の寺田寅彦の言葉は有名だが、災害は恣意的に記憶されたり、忘却されたりするようだ。本稿のテーマである災害におけるメディアのあり方についても恣意的に語られてきた可能性に注意したい。

東日本大震災時のソーシャルメディアを検証する

たとえば東日本大震災で主力となったメディアはソーシャルメディアだと言われてきた。確かにゼロ年代後半にiPhone、Twitter(現在のX)、Facebookが登場し、機が熟した中で発生した震災ではスマホによるソーシャルメディアの利用が情報収集に役立つ条件が整っていた。

しかしその実態は丁寧に分析してみる必要がある。田中幹人ほかによる『災害弱者と情報弱者』(筑摩書房)は震災発生後3カ月間の全国紙とウェブメディア(提携マスメディアのネット配信記事の中からヤフーニュース編集部が選んだヤフー・トピックスとTwitterをユーザーが編集したTogetter)で、全報道量に対する「東日本大震災」関連情報の割合を調べている。

いずれの媒体でも時間経過とともに割合は減ってゆくのは当然だが、減少率は異なる。減少率が最大だったのはヤフー・トピックスで、発生から3カ月後には震災関連情報が全体の15%にまで減っている。入れ替わって増えているのは芸能、スポーツ情報で3カ月目には全情報の半分以上がそれに置き換わっていた。田中らはヤフー・トピックスの中でページビューランキング上位10位の記事を分析対象にしているので、全国のネットユーザーは3カ月の間に震災への興味を失ったと考えられる。

このヤフー・トピックスが全国区での関心の推移を示していると考えるなら、Togetterの震災関連情報比率が3カ月目に27%になったことはどう考えるべきか。ヤフー・トピックスより減少率が少ないのは、おそらく原発事故関係情報の貢献ではないだろうか。ソーシャルメディアも震災直後は被災当事者やその関係者の書き込みが多くあったが、一刻を争う事態が徐々に減ってゆくにつれて書き込みも減っていった。

それに対して原発事故は冷温停止状態に至るまでに何度も危機的状況を迎えたし、放射線被曝の危険性をめぐっては激しい論争が起きていた。被災地ではなく、むしろ原発政策に関心のある人たちによって全国区的に繰り広げられたそうした議論のプラットフォームになったのがTwitterであり、議論をまとめたTogetterだった。東日本大震災におけるソーシャルメディアの存在感はこうした原発論議を通じて実態よりも大きく感じられていたのではないか。

とはいえ、それはヤフー・トピックスとの「差分」程度ではあったのだ。そう思うと全国紙の震災関連記事比率が3カ月後でも68%あったことにはあらためて注目すべきだろう。既に全国型の関心事でなくなっていることはヤフー・トピックスの比率の推移が物語る。それでも全国紙が震災記事を書き続けたのは、前代未聞の大災害を報じることが公共的メディアの責任であるという自負からであっただろう。原発関連情報などはネットユーザーから御用ジャーナリズムと批判されながらも報道を続けている。民意の離反や反発も一定程度覚悟しつつ、それでも公共メディアとして議題設定責任を果たそうとする姿勢は、言葉は悪いが"やせ我慢"と評したくなる面がある。

力を発揮した地域メディア

しかし同じマスメディアでも地域メディアに視点を移せば事情が異なる。津波被害で輪転機が動かなくなった石巻日日新聞の記者たちは震災後6日間にわたって手書きの壁新聞を発行し、避難所に貼って回った。東北地方のブロック紙である河北新報は震災後、地元情報の報道に注力することを決定、ガソリンの残存状況や医療機関の情報を伝え続けた。自らもその一員となって地域共同体に貢献することでジャーナリズムの公共性を果たした点が被災地の地方紙と全国紙との違いとなった。

それは放送メディアでも同じだろう。本格的に被災地に寄り添った放送メディアの例としてコミュニティ放送局と臨時災害放送局(臨災局)にも注目できる。

地域に密着した情報提供を目的に1992年に制度化されたコミュニティ放送局は阪神・淡路大震災で外国人へ向けて災害情報の提供を行うなど、マスメディアや行政サービスの隙間を補う活動で注目された。こうしてコミュニティ放送が災害時に重要な役割を発揮することを認識した政府は、災害時に被害の減少に役立つ放送活動を時限的に認可する臨時災害放送局の仕組みを作った。

この制度が生かされたのが東日本大震災だった。総務省によれば震災後、岩手、宮城、福島の各県で開局された臨災局は26局を数えた。

コミュニティ放送局や臨時災害放送局は発信機が確保できれば情報を提供できる。基地局をつなぐネットワークが災害で破壊されると使用不能になる携帯電話網より確実だ。受信も簡便な装置で可能だし、手巻き充電対応など災害に強い受信機も販売されている。

放送メディアは送信機の出力次第で物理的に伝達範囲を限定できる。被災地住民が被災地住民のニーズをきめ細かく拾い上げたコミュニティ放送が可能だ。北郷裕美『コミュニティFMの可能性』(青弓社)は防災メディアが「緊急時・災害時→復旧時→復興時」の三段階に関わる必要を指摘している。全国区メディアは緊急時には災害情報をニュース価値があるものとして取り上げるが、受け手の関心が薄れるのと並行して徐々に話題の中心から外してゆく。その点、発信者、受信者共に被災者であるコミュニティ放送は、被災した地域が復旧、復興する過程で直面する問題をニュース価値があるものとして取り上げ続ける。東日本大震災ではその役割を果たしたのが臨災局だった。

地域社会との日常的な関わりこそ

そう指摘した上で、さらに別の論点を提示したい。今年が関東大震災100年であることを冒頭に触れたが、関東大震災の起きた1923年には、ラジオ放送の実現を目指して新聞社などが主体となって遠隔電波送信実験が盛んに行われていた段階で、まだ放送メディアは日本に存在していなかった。それゆえ関東大震災で流言が発生し、朝鮮人が多く犠牲になった時、ラジオができていればと言われた。

しかし関東大震災の犠牲者は朝鮮人だけではない。犠牲者が莫大な数に及んだのは下町が火災で消失したからだが、そこは近代化の及ばぬ人口密集地だった。阿部彩は『弱者の居場所がない社会』(講談社現代新書)でこう書いている。「震災前から社会に内在されてきた格差や社会的排除の力学が、そのまま災害弱者を生み出し、災害格差を拡大させていることを見ると、今後の復興支援の中で社会的包摂と貧困緩和の視点がどれほど組み込まれてゆくのか、はなはだ心配なのである」

メディアの災害対策は災害の発生から始まって地域の表面的な復興で終わるのではない。社会に内在されている格差や社会的排除の力学を解体してゆく日常的な関わりこそが防災減災につながるのだ。そこにこそ全国区型メディアの役割があり、自分たちの公共性を賭けた課題として「やせ我慢」ではなく、正面から扱うべきであろう。

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