ニッポン放送開局70年 放送ライブラリーで回顧展示会  『オールナイトニッポン』でトークショーも

編集広報部
ニッポン放送開局70年 放送ライブラリーで回顧展示会  『オールナイトニッポン』でトークショーも

今年7月15日に開局70周年を迎えたニッポン放送。その歴史を秘蔵の資料や音声素材などで振り返る催しが7月5日から9月1日まで横浜市の放送ライブラリーで開かれた。名づけて「ニッポン放送タイムトラベル70年展~with History of Radio」。会期末の8月24日には施設内のホールで公開セミナー「オールナイトニッポンの魅力を探る」も行われ、ラジオのこれまでとこれからを考える貴重な機会となった。

公開セミナーは上柳昌彦さん(ラジオパーソナリティ/元ニッポン放送アナウンサー)と冨山雄一さん(ニッポン放送コンテンツプロデュースルーム長)の2人が登壇。200人を超える来場者で客席は満席となった。上柳さんは1981年にニッポン放送入社。以来、アナウンサーとしてあらゆるジャンルの番組に出演。1967年にスタートした『オールナイトニッポン』(以下「オールナイト」)では83年~86年にパーソナリティを務めた。現在は早朝の『上柳昌彦 あさぼらけ』を連日担当している(以下、パーソナリティおよびタレント名は敬称略)。

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番組開始当初は糸居五郎、斉藤安広、亀渕昭信らニッポン放送の社員がパーソナリティだった「オールナイト」。1970年代中盤からは吉田拓郎、松山千春、タモリ、ビートたけし、中島みゆき...... テレビには出演しないアーティストも含め、お笑い芸人、アイドルなどジャンルを問わず時代を画した個性的な面々が各曜日の「顔」として出演し、時々の話題や文化を発信してきた。それだけに、83年に同番組のパーソナリティを命じられた上柳さんは「自分でいいの?」。しかし、担当するはずだった番組の企画が直前でキャンセルになったこともあって「救いの神でもありました(笑)」。担当した3年間はまるまる第1部の中島みゆきに続く第2部の担当で、スタジオもスタッフも同じ。「中島さん宛てに寄せられるとてつもない量のはがきと、自分へのそれを比較してうちひしがれたものです」と当時を振り返った。

しかし、その中島をはじめタモリ、ビートたけし、とんねるずといった"ラジオスター"のマイクパフォーマンスと同時代を伴走した上柳さん。タモリが番組最終回(83年9月)でみせた清々しい表情や、ビートたけしが雑誌「フライデー」編集部を"襲撃"した際に代打を務めた思い出(86年12月)などを絶妙の話芸で紹介。当時の放送を知る年長の世代には、その様子が耳にまざまざとよみがえり、知らない世代には驚きをもって受け止められていた。

一方の冨山さんはNHKを経て2007年にニッポン放送へ。小栗旬、坂崎幸之助、AKB48などの「オールナイト」を担当し、現在はコンテンツプロデュースルーム長として同社の番組全般を統括しながら、プロデューサーとしても現場に立つ。ラジオがやりたくてNHKに入ったという筋金入りのラジオ好きだ。冨山さんが「オールナイト」の思い出として特に言及したのはナインティナイン。「1994年から(2014年10月からは岡村隆史のみ)毎週木曜の夜には必ず有楽町に来て、30年にわたって生でしゃべり続けている。それってすごいことじゃないですか」。また、人気俳優として大忙しだった小栗旬が過密スケジュールの間隙を縫ってレギュラーの生放送に挑んだ際、オンエア中に眠りかけてしまい、それを気遣った笑福亭鶴瓶がアポなしでスタジオに激励に訪れたという"神回"なども紹介。深夜ラジオならではの自由で破天荒なエピソードに会場は沸いた。

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深夜放送のパイオニアとして始まった「オールナイト」は57年にわたり多くのスターやムーブメントを生み、現在も「オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム」の驚異的な集客数などで常に話題を提供し、進化し続けている。当初は25時からの1部、27時からの2部の2段重ねだったが、1995年ごろから3部となり、2015年からは浅い時間帯からの4部制になるなど、「オールナイト」ブランドがタイムテーブルで拡大し続けていることに上柳氏は「それが必ずしもいいことなのか、それだけでいいのかなって思ったのも事実」「僕らの世代としてはそれを乗り越えるようなものもやらなきゃという思いもある」と打ち明けた。ただ、現在も自身の番組『あさぼらけ』の準備中は「オールナイト」の放送を常に聴いているという。佐久間宣行やオードリーらの放送に接すると、「高田文夫さんがおっしゃっていた"ラジオ長屋の横のつながり"という意識がある」「あのちゃんがとてつもない才能を持っていることなんて、こういう仕事をしていなければわからなかった」と大いに刺激を受け、リスナーとしても楽しんでいるという。「かつてオールナイトといえば、若者がメインターゲットというイメージがありましたが、いまはもっと高い年齢層も聴いているんですよ」「深夜の生放送に番組スポンサーや広告会社のスーツを着た方々が立ち会っていたりするのも、かつてを知るものとしては隔世の感があります」とも語った。

「ラジオはいまや電波だけでなくラジコやポッドキャストなどを通じて最も聴かれていて、影響力も高まっている」との認識を示したのが冨山さん。それだけに「音声メディアはいま大きな転換点にある」と述べたうえで、「ひとつの時間を送り手と受け手が一緒に過ごすのがラジオの大きな役割」としながらも、好きな時に好きなシチュエーションで楽しめるポッドキャストにラジオの大きな未来があるとも語り、「その核となるAMラジオという文化がこれからも続くよう引き続き応援を」としめくくった。

セミナーの終了後には上柳さんの発案で握手&サイン会も実施。ロビーには長蛇の列ができ、リスナーとの距離が近いラジオならではの熱気に包まれた。


企画展示は来年の「ラジオ100年」も視野に

夏休み中に開催された「ニッポン放送タイムトラベル70年展」は大きく4つのテーマで展示。「Back to 1954」のコーナーは1954年7月15日に本放送を開始したニッポン放送の当時の写真や番組表、マイクなどとともに、開局前夜祭で放送された歌舞伎中継の音源の一部を紹介。添えられた番組のキューシートには「制作担当」として「島田」の名前が記されていたが、本誌でも先日紹介した嶋田親一さんではないかと思われる。

「70年のあゆみ」のコーナーでは同社が選んだ100のトピックスを紹介。1242khz以前に周波数が1240kHzだった時代があったことに驚いていた若い来場者の姿も。圧巻は1973年以降のタイムテーブルの展示だ。ネットが全盛になる前、ラジオ各社は紙による番組表が当たり前だった。番組の顔となったスターたちが表紙のカラーの番組表に当時のラジオファンはときめいたもの。受信確認のため昭和のラジオっ子が集めたベリカードの展示も懐かしかった。

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そして『オールナイトニッポン』の歴史をたどるコーナーでは歴代パーソナリティを年表で紹介。リスナー向けに発行されていた会報誌『ビバ・ヤング』をはじめ、歴代のジングルを音声で聴くこともできた。「ラジオ・チャリティ・ミュージックソン」のコーナーでは今年活動開始から50年を迎える同企画のこれまでを振り返った。『オールナイトニッポン』の収録に使われる生放送用の2スタを再現したコーナーでは来場者がひっきりなしに記念撮影を楽しんでいた。

このほか関連企画として、日本で初めてラジオ放送が行われた1925年3月22日から来年で100年を迎えるのに先立ち、「ラジオ100年の歩み」のパネル年表や当時のラジオ受信機、戦前のポスターなども展示。放送史やメディア史の自由研究にはもってこいの企画ではなかっただろうか。

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展示のクライマックスは「I ♡ラジオ ラジオって○○だ!」の大きなパネル。来場者はハート形の付せんにそれぞれのラジオへの思いや好きなパーソナリティへのメッセージを書いて貼り付けていた。メモをとりながら熱心に見学する東京から訪れた大学生に話を聞くと、「ニッポン放送が好きで5年ぐらい聴いています。中学の実習でラジオの工作を経験してラジオのファンになりました。自分が生まれる前のラジオのことをたくさん知ることができてためになりました。聴いているときは1人だけど、同じように思っているリスナーがたくさんいることがわかってうれしかった。こういう機会はこれからも続けてほしいですね」と話してくれた。

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