KDDIは2023年7月、ケーブルテレビ(以下、CATV)関連事業を24年1月1日付で、グループ会社のJCOM株式会社(以下、J:COMと表記)に承継することを発表した。両社で別々に展開されていたサービスやソリューションを一本化することで、事業の効率化が見込まれている。
J:COMは言わずと知れた、日本最大手のCATV事業統括運営会社(MSO)かつ番組供給事業統括運営会社(MCO)である。現在はKDDIの連結子会社であり、KDDI と住友商事が折半で出資をおこなっている。CATVは2000年代以降、めまぐるしい業界再編を繰り返しており、J:COMはその台風の目であった。以下ではその経緯を簡潔に振り返ったうえで、日本のCATVの趨勢について若干の考察を加えたい。
KDDIとJ:COMの関係史
J:COMは1995年、株式会社ジュピターテレコムとして創業した。住友商事と、アメリカ最大手のMSOであったTCI(現・LGI)との合弁会社である。その後、全国各地の小規模なCATV事業者を積極的に買収して次々と傘下に収め、短期間で日本最大のMSOに成長した。
KDDIは2005年からCATV事業者との連携を強化し、IP電話プラットフォームの提供交渉を始めた。翌年にはJ:COMに次いで国内第2位のMSOだったジャパンケーブルネット(JCN)を買収し、傘下に収めている。その最大のねらいは、CATV網の利用によるアクセス回線の確保であり、NTTに極力依存しない事業環境を作り出すことだった。
というのも当時、NTTは光ファイバー回線によって、映像(=「スカパー!光」)、電話(=「ひかり電話」)、インターネット(=「Bフレッツ」)をまとめて提供する、いわゆる「トリプルプレイ」戦略が好調だったのに対して、KDDIは大きく出遅れていた。真っ向勝負では勝ち目がない。そこでKDDIは、CATV事業者がすでに、多チャンネルのテレビ放送だけでなく、インターネット接続サービスを提供していることに目をつけた。ここにKDDIの電話事業が参入すれば、「二者一体」でトリプルプレイが実現できる。CATVの世帯カバー率、地域密着の営業力を味方につけることで、NTTに対抗しようという起死回生の策であった。
それに対して、J:COMは1997年以降、映像(=「J:COM TV」)、電話(=「J:COM PHONE」)、インターネット(=「J:COM PHONE」)のトリプルプレイ戦略を独自に打ち出し、サービスエリアを堅調に拡大していた。固定電話サービスのシステムを自社で構築し、2004年にはKDDIに先立って、全国のCATV事業者に対してIP電話プラットフォームの売り込みを開始していた。だが、KDDIの参入によってわずか1年のあいだに、CATV網を利用した電話回線の市場は、J:COMと拮抗する勢力になった(2005年はJ:COMが25%、KDDIが0%だったのに対して、2006年はJ:COMが28%、KDDIが25%)(1)。
したがって当初、J:COMとKDDIは競合関係にあったわけだが、両社の事業統合という未来シナリオも早くから指摘されていた。その方向に大きく状況が動いたのは2010年である。J:COMに関する日米間の合弁契約が期限切れを迎えたことで、KDDIが経営権の取得に名乗りをあげ、株式を大量取得した。これに対抗して、住友商事もJ:COMにTOB(株式公開買い付け)をかけた。その結果、KDDIと住友商事がJ:COMの主要株主となり、3社のあいだでアライアンスの推進、言い換えれば、戦略的パートナーシップの締結がおこなわれた。
たとえば、地方局の合併買収を重ねて成長を遂げてきたJ:COMはそれまで、テレビ、ネット、電話にそれぞれ別のネットワークを用いていて、全国五大都市圏を含むサービスエリア間を結ぶバックボーン回線もその都度、場当たり的に拡張せざるを得なかった。そこで、まずはバックボーン回線を計画的に統合するため、2012年にKDDIの統合IPコア網の採用を決めた。こうしてCATVのインフラストラクチャーが高度化していくことで、KDDIにとっては、自社開発の次世代セットトップボックスの供給、CATV網に無線LANスポットを設置できるといった利点が生まれたわけである。
そして2012年には、KDDIがJ:COMを連結子会社し、さらにJ:COMがJCNを吸収合併することが決まる。新生J:COMはKDDIと住友商事が共同運営することになった。一連の動きは当時、「ケーブルテレビ業界最後の大再編」(2)、「かくも難しい通信・放送の融合」(3)などと報じられた。それから約10年が経過して、KDDIがCATV向けに提供してきた映像、電話、インターネットなどに関するすべての事業が、J:COMに集約されることになったわけである。
メディアからインフラストラクチャーまで:
一枚岩ではないCATV
このように振り返ってみると、CATV局の経営は、通信業界の市場動向に大きく左右されてきたことが分かる。もっとも日本全国を見渡してみると、今なお地上デジタル放送の共同聴視施設として、放送の生命線になっている地域も少なくない。必ずしもすべての事業者が、放送からインターネットに成長の軸足を移したわけではない。
そもそも日本のCATVは、4つの世代に大別できる。まずは1950年代なかば、山間部などで難視聴を解消するための共同聴視施設として始まり、当初は主に任意団体(組合)によって自主的に運用されていた(=第1世代)。1960年代なかばになると、自発的に自主放送を始める共聴施設が現れる(=第2世代)。1970〜80年代には、電鉄、建設、流通などの異業種企業が都市型CATVに次々と参入し、衛星放送などを含めた多チャンネル体制を整備(=第3世代)。1990年代にはインターネット接続サービスに乗り出し、すでに見たように、事業の広域展開や大資本のもとでの経営統合が進んでいった。装置産業であるCATVに対して、国が政策金融、税制優遇などの財政的支援をおこない、自治体も積極的に関わることで、地域の情報基盤として育成してきた(=第4世代)。
といっても、あらゆるCATV局が世代交代を進めていったわけではない。とくに農村や漁村などにおいては、第1世代や第2世代にとどまっているからこそ、地域のなかで(合併や買収の対象になることもなく)命脈を保っている小規模事業者が点在している。第3〜4世代のCATV局とは事業規模が格段に違っていて、それゆえ企業理念も経営課題もまったく異なっている。
自民党の情報通信戦略調査会が2023年9月にまとめた提言には、CATVについて「地域における放送送受信環境の維持の担い手という社会的役割に鑑み、総務省は、その法的位置付けの見直しのほか、条件不利地域における共聴施設その他の放送に係るインフラ整備に対する支援措置の導入について検討すべきである」と述べられている。「条件不利地域における共聴施設」が、第1〜2世代のCATVとある程度重なる。
「法的位置付け」については脚注で、「例えば、災害放送の義務、番組調和原則等の規律が適用除外とされている」ことが挙げられている。その「見直し」ということは、こうした規律をCATVにも課してはどうかという提案を意味するわけだが、放送よりもインターネットに成長の軸足を移した事業者にとっては、難しい注文かもしれない。
それに対して、災害発生時に「情報の空白地帯」になりかねない地域においては、CATVの局員たち自身も被災者にほかならない。好むと好まざるとにかかわらず、きめ細やかな災害報道に取り組み、被災地の生活を支えてきた先例がある(4)。自主放送(コミュニティチャンネル)の歴史は、その意義を力強く物語っている。
このように、日本のCATVは決して一枚岩の存在ではない。そのため、業界団体が事業者の総意を代弁することも、「法的位置付け」の最適解を見いだすことも、どちらも決して容易ではない。まずは「日本のCATV」を主語にして語ることをやめ、その地層の厚みに目を凝らしたうえで、これからのあり方を展望することが重要ではないだろうか。
(1) 『日経コミュニケーション』2006年11月15日号
(2) 『週刊ダイヤモンド』2012年11月3日号
(3) 『実業界』2013年1月号
(4) 拙著「コミュニティメディアの考古学 : 初期ビデオアート、CATV、災害の記録」(『立命館生存学研究』6、2022年)を参照。