信越放送・手塚孝典さん 侵略の歴史を背負う僕らの責任-戦争の実相を伝える意義を再考する【戦争と向き合う】①

手塚 孝典
信越放送・手塚孝典さん 侵略の歴史を背負う僕らの責任-戦争の実相を伝える意義を再考する【戦争と向き合う】①

民放onlineは、シリーズ企画「戦争と向き合う」を新たに始めます。各放送局で戦争をテーマに番組を制作された方を中心に寄稿いただき、戦争の実相を伝える意義や戦争報道のあり方を考えていきたいと思います。

第1回は信越放送の手塚孝典さん。満州に村人を開拓団として向かわせたある村長の内面への考察を通じ、いま起きている戦争との向き合い方に一石を投じます。(編集広報部)


ロシアのウクライナ侵攻もイスラエルのガザ攻撃も、日々伝えられる戦場の凄惨さばかりではなく、その後景に日本の侵略の歴史が重なり、心の奥深くに刺さった棘が痛み出すような気持ちのざわつきをおさえられない。日露戦争後に韓国を保護国化・併合、中国東北部に満州国を建国して推し進めた侵略と植民地支配は、在留邦人の保護や自衛権の行使を名目にして始まり、日本人による他民族の排斥という徹底的な人種差別、民族浄化を経て占領状態を恒久化していった。その過程で、朝鮮の国権回復や独立を求めた活動家たちを「不逞鮮人」、満州国の抗日勢力を「匪賊」と呼び、支配する側がレッテルを貼ることによって、その背景や意味を剥奪し、対立の図式を単純にすることで日本国内の支持を集め弾圧を正当化した。

占領者が自らに免罪符を与える不条理は幾度となく繰り返されてきた。そして、いま、日本は、人道的危機の回避を訴えるものの、戦争の背景に目を向けようとせず、根本的な解決を導こうともしない。平和主義を掲げる国として断固たる態度を示すかわりに、武力による状況の悪化をそれが正義でもあるかのように支持している。

可視化された戦場だけが戦争ではない。満蒙開拓という国策によって侵略と棄民の代償を負わされ、戦後もなお苦難の人生を歩む人々の声に耳を傾けることは、いま世界で起きている戦争と向き合うための視点と態度を示してくれるはずだ。

犠牲の上に成り立つ「豊かさ」

『決壊~祖父が見た満州の夢~』(2018年)は、祖父の足跡をたどる孫の旅を通して、開拓団を送り出した側の視点で満蒙開拓を見つめたドキュメンタリーだ。

戦争中、長野県の河野村で村長を務めた胡桃澤盛は、国策に従い、満州に河野分村をつくるべく村人を満州国へ送り出した。しかし、ソ連軍侵攻で戦場と化した満州で73人が集団自決。敗戦の翌年、盛は42歳で自ら命を絶った。事実に近づく手がかりは、10代の終わりから死の直前まで書いていた日記。青春時代は大正デモクラシーに触れ、自由主義に理想を求め、30代半ばで村長となり村のために奔走する日々の心情が、生々しく綴られている。家族のため、村のため、社会のために生きたい、常に正しくありたいと願っていた盛は、気がつけば国のため、戦争遂行のために邁進していた。

孫の胡桃澤伸さんは、日記を頼りに、祖父が一度だけ赴いた中国を訪ねる。1943年に分村を決めた盛は、翌年、先遣隊と一緒に長春郊外の入植地を視察した。開拓団が入植する土地は、関東軍と満州拓殖公社が現地の住民から半ば強制的に収奪していた。当時の日記(44年3月29日)に綴られた「いい村だ」という盛の感慨に、伸さんは目をとめる。

「こんな広々とした農地があって、どこまでも平らでしょう。いい村が手に入ると思って、舞い上がったのかな。村の発展を願った祖父の気持ちが、侵略の意図と重なってしまった、この『いい村だ』っていう4文字は、重いですね」

地主の家に生まれ育ち、年貢の催促に行くことに罪悪感を抱いていた青年時代の盛。誰かの犠牲の上に成り立つ「豊かさ」を享受することへのためらいや葛藤は、「村の発展」という理想と大義の陰に押しやられていく。

沈黙の声を聴く

戦後、中国で犠牲を強いられてきた人々の声を聴いてきただろうか。取材では、河野村開拓団の入植地に暮らしていた男性に会うことができた。蔡忠和さんは、当時14歳で、一家は開拓団に追いやられた。その後について尋ねると、村から少し離れた、誰も住んでいなかった場所に草の家を建てて暮らしたと語った。湿地帯で、米も野菜も作れない痩せた土地だったと。腹が立ったのではないか、と聞く伸さんに、説き伏せるように、ゆっくりと言葉をつないだ。

「住めなくなったけど、命さえあれば、それでよかった。日本人の言うことが絶対だったから。開拓団が耕し始めた土地はもう日本のものだった。食事は、食べ物もあまりないから、どんぐりの実を粉にして食べていた。おなかをこわしたり、痛がったりしたことはあった。食べにくかったか? 食べにくいも何も、おなかがいっぱいになれば、それでいいんだよ」

祖父が満洲で見た夢の実像に触れて、伸さんは言葉を詰まらせる。

「祖父が決めたことで大勢の村の人が命を落としたのは悲しい。でも、一番悲しいのは、村に良かれと思ってやったことで、侵略の側に立ったってこと。それが一番悲しいね。おじいさんの日記読んでいると『正しく生きたい』ということを繰り返し書いてあるんですよ。そのおじいさんが国策にのって侵略の側に立っていったのがものすごく悲しい」

この日は、河野村開拓団73人の命日だった。背丈を越えるトウモロコシがどこまでも続く畑の一角で集団自決が起きた。若い女性が自分の子どもの首を絞めて殺した事実。そういう死を無いことにはできない、伸さんは終焉の地に立ち、つぶやいた。祖父にとっては73人ではなく、顔と名前を思い浮かべることができる村民一人ひとりだったはずだ。その人たちの名前を読み上げ、送り火を焚き、手を合わせる。戦後、悼む人もなく置き去りにされてきた人々に語りかける。そして、国民の命をないがしろにした国の政策、個人を犠牲にしてまでも国全体の利益や一体感を優先させる思想に与した祖父が、自らの過ちと向き合おうとしたときの苦しみの深さに思いを寄せる。

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<河野村開拓団73人を悼む胡桃澤伸さん>

正しさの罠

あの時代、人々は何に熱狂したのか。侵略に同調する世論が形成され、後押ししたという事実。善良ゆえに侵略に加担してしまった人々がいた事実。狂気に駆られた人々が侵略を推し進めたわけではない。一人ひとりが、それぞれの立場で「正しい」判断をしたと信じていたはずだ。盛は、若い頃から「正しく生きたい」と願いながら、公のため、すなわち「天皇のための国」や「それに従う村」にとって「正しいこと」を選び取っていく。それが村人の幸せにつながると信じていた。皮肉なことに、本来、盛が持ち合わせていた人ひとりの命の尊さを思いやる感性は、正しさを求めれば求めるほど意識の底に追いやられていく。国家主義は、イデオロギーとして啓蒙されるだけではなく、家族や地域社会といった身近な人間関係のなかに萌芽がある。信頼や愛情、人々の絆は、時に判断を狂わせ残酷な結果を導く。

こうした過ちに陥らないこと、過ちに気づくこと、過ちを正すことが、いかに難しいことなのか、盛の人生は教えている。気づいた時には取り返しがつかない、その衝撃は相当なものだったはずだ。国の根幹が突然変わり、昨日まで正しいと言われて信じていたものが、悪であり罪であると弾劾される。この結果にどう対峙すればいいのか、盛は1945年11月19日の日記で、戦後社会のあり方について書いている。

「何故に過去の日本は自国の敗けた歴史を真実のまゝに伝えることを為さなかったのか。(中略)今度は敗戦日本の実相をとことん迄国民の脳裡にきざみつけて、後生忘れる事なく此の敗戦の実相の上に立って新しい日本を考えさせて過誤なからしめねばならぬ。」

忘却に抗う記憶の闘い

盛が繰り返す「敗戦の実相」を、戦後日本は都合よく解釈してきた。国策として進めた満蒙開拓の責任は個人の判断や行為に矮小化、自己責任論に収斂されて犠牲を強いられた人々の声を封印した。アジアへの侵略は、その記憶を消し去ることから始まり、日本の戦争の歴史からアジアの存在をいとも簡単に覆い隠した。果たして、戦争体験は悲劇を生き抜いた美談へと横滑りして、「戦争犠牲者としての国民」は敗戦の焦土からの復興と高度経済成長という新たな物語の主人公を自認することになり、戦前・戦中の日本の優越意識を経済発展によって上書きした。「アジアの盟主」という自意識は、敗戦によって断ち切られたわけではなく、社会の底流にうごめき、新たなレイシズムを呼び起こしている。

自らの間違いを認めず、責任を棚上げした結果、いま、政府は、隣国との対話や交流に力を注ぐかわりに、危機感を煽り立て、武力による国際問題の解決を前提に軍事大国化へと大きく舵を切っている。その先にあるのは、侵略と棄民であることを、僕らはすでに知っている。だから、多様な視点から、何度でも、内省を促し、伝え続ける。痛ましい記憶に立ち戻り、決して無かったことにしない、この国に忘れさせないための努力。それが侵略の歴史を背負う僕らの責任である。

満蒙開拓の歴史に目を向けることは、一人ひとりがこの国や政治や社会とどう向き合うのか、そして関わるのかを問い直すことでもある。世界で起きている戦争にどのような態度で臨むのか、戦場の惨劇を一過性の情報として消費するのではなく、踏み込んで考えることにもつながる。過去に光をあてることで、現在を照らし、自身のありようを映し出す。僕らは、いま、どこに立っているのか。その座標をできるだけ正確に知ることが、なすべき行動への道標となるはずだ。

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