私たちを襲ったのは私たち自身の政府が作った核爆弾だった 核実験の被害を追って

伊東 英朗
私たちを襲ったのは私たち自身の政府が作った核爆弾だった 核実験の被害を追って

今年3月日は「第五福竜丸事件から70年」と言われます。しかし、当時、太平洋上で行われた核実験で被曝したのは第五福竜丸だけではありませんし、70年前の1954年だけでもありません。20年間の取材を通じて明らかになったことを本稿で紹介します。

証言者後ろ姿resize.jpg

<元マグロ船乗組員に話を聞く>

あまりにも衝撃的な証言

素材VTRの最初は、2004年春、高知県の漁村で出会った元マグロ船乗組員の姿から始まります。集落の奥にある神社の前で、彼は、自分に付いてくるように言います。カメラマンとぼくは、言われるがまま彼の後ろ姿を追いかけていきます。彼の自宅は、狭い路地を通ったところにありました。座るなり、彼は、こう話し始めました。

......年月も忘れてしもたんよ。当時マグロ船に乗りよってね、福竜丸が被害にあったということを無線で聞いてね。操業は中止して東京に入航、帰ってきたら、係官がガイガーカウンターですか、機械で各人調べて。あとは魚を揚げてもいかんということで、また東京から2日走ってから魚を沖で放棄したですかね。

証言者resize.jpg

<証言する元マグロ船乗組員>

それから後、2、3年たって、もう一ペン、クリスマス島ですかね。その時は原爆の光見たんですよ。夜8時やったと思いますが、きれいな晴天のはずやのに稲光みたいな光がありまして、青白い閃光で、目に堪えるような光でしたがね。他の人間が「こりゃ原爆ぞ!」言うて冗談めかしたようなことで騒いでおったけどね。その後、5分か10分くらいする間に水平線が赤くなったんですよ。太陽が沈むみたいな、丸い太陽の倍もあるような大きな塊が浮かんでね。「あー、やっぱり原爆やったねえ」言うて騒ぎよったら、それがどんどん膨れ上がって、その光が2重になってだるま型みたいになって、みるみる間にずーっとどんどん広がって、空一杯とまではいかんけんど、かなり広い範囲に広がってね。

そしたら2、30分もしたかせんかぐらいにね、夜やけんライトをあげて操業しよる、そのライトの光に雪みたいな粉がチラチラしだして「こりゃ死の灰や」いうて騒いでね。私らも何か気持ちが悪うて、私は船の陰に隠れた記憶があります。

その船に乗っちょった人間がどんどん50代60代で亡くなって「原爆の関係があるんかなぁ」と思うてましたが、最近まで原爆におうたことは忘れておりました。......

それは、すべてが初めて聞く話であり、あまりに衝撃的で、身動き一つできなかったことを覚えています。

今年、第五福竜丸事件から70年とか、ビキニ事件から70年と言われますが、彼の証言どおり、第五福竜丸以外の、多くのマグロ船乗組員が核実験を目撃しています。また、彼が原爆の光を見たと語ったのは1957年の水爆実験で、核実験でよく知られているビキニ環礁ではなく、クリスマス島です。マグロ船乗組員は、何度も水爆実験と関わっているのです。

実は、日本のマグロ漁船が、水爆実験の被害を受け始めたのは1952年、アメリカが開発した人類史上初となる水爆の実験が成功した年です。太平洋での核実験は100回以上行われ、最終的に終了したのは1962年です。つまり、11年間にわたり、核実験が続く海でマグロ漁は続けられたのです。しかも、不幸なことに、核実験が行われた場所は、マグロ漁場と一致していました。当時のマグロ漁は、年間回から回、漁場へ通い、漁を繰り返すものでした。インタビューした100人以上の乗組員や遺族の証言の中には、核実験の期間と操業が、ほぼ一致する乗組員がいます。40代でがんのため亡くなった乗組員の場合、60回から80回爆心地を往復していたのです。

今から70年前、1954月。読売新聞のスクープによって、マグロ船の被曝が世界的なニュースになり、日本政府は、全国各港で放射能検査を始めます。人体、衣服、船体、漁具、そしてマグロの放射線が記録されました。その年の12月末までに被曝が確認された船は、延べ992隻。被曝したのは、マグロ船だけではなく、捕鯨船、貨物船、客船なども含まれていました。

ところが、日本政府は、その年の1231日、安全宣言を行うとともに検査を中止、翌日からのマグロはすべて水揚げされ、マグロ漁は続けられました。そして、核実験は以降年間、1962年まで続けられたのです。

推測になりますが、年間に延べ1,000隻とすると、核実験中だけでも、延べ1,000隻が被曝。隻の船の乗組員を20人とすると延べ22万人が被曝した可能性があります。世界規模の被曝事件ですが、未解明のままです。

 テレビ的ではないテーマ

冒頭にあるように2004年、ぼくはこの事件に出合い、事件の規模の大きさにもかかわらず、未解明であることのアンバランスさに戸惑うばかりでした。今でも、どう考えればいいのかわからないままです。

とにかく、事件を追いかけ、取材をし、資料を集め、証言を集めました。こういった調査報道では、その多くが専門家や文献などを元にし、番組を構成していきます。しかし、この事件は、ほとんど専門家もおらず、文献もないのです。今でも、その状況は変わっていません。そのため、核実験を所管した米国原子力委員会(現在の米国エネルギー省)のライブラリーから、直接、文書を入手し、まとめていきました。物理学、核兵器の構造、それに伴う専門的な数値やデータ、核を軸とした国際関係、アメリカ史など勉強することばかりでした。

ほぼ毎年、その内容を番組にまとめ放送しました。

映画冒頭resize.jpg

<映画『SILENT FALLOUT』冒頭部分>

「番組制作を通してつらかったことは何ですか?」と聞かれることがよくあります。おそらく、取材の際、マグロ漁師に厳しいことを言われた、などを想像して質問していると思うのですが、実際は、まったく違うところにその答えはあります。

その答えは「このテーマが興味をもってもらえない」です。放送が深夜帯だということもありますが、放送後、ほぼ反響はありませんでした。「放射能」。このテーマは、個人的な感覚ですが、テレビ的に最も興味を惹かないテーマだと感じています。2012年、15年、そして23年、このテーマで映画化もしました。映画を通して、さらにその感覚は強くなっていきました。

実態がわからない。被害が見えない。だから「旬」ではなく「今でしょ」でもない。今、映像化しなければならない必然性は、何一つ見つかりません。事件を追いかけ始めて、今年で20年。よりにもよってこんなテーマと出合ってしまった、と正直思うこともあります。でも、今は、だからこそ向き合わなければならないと思っています。

ネバダ核実験.jpg

<米国内(ネバダ核実験場)で行われた実験>

知られていない北米大陸の放射能汚染

本稿のタイトルにある「私たちを襲ったのは、私たち自身の政府が作った核爆弾だった」は、核実験による被曝者で、がんサバイバーでもある、メアリー・ディクソンさんが取材で語った言葉で、昨年、完成した映画『SILENT FALLOUT』の冒頭で使われています。この映画は、これまで20年間の取材と、2020年のイギリス取材、そして2022年の米国での取材を元に完成させました。テーマは、北米大陸の放射能汚染、サブテーマは、女性の行動が世界を変える、です。

1951年から、米国内で核実験が始まりました。大気圏内核実験がちょうど100回、地下核実験が828回行われ、その結果、米国全域が放射能汚染しました。子どもたちの被曝を恐れた母親たちが立ち上がり、子どもたちの被曝を科学的に証明。その結果を重く受け止めたケネディ大統領が、大気圏内核実験の中止を宣言した――という歴史的事実を描いています。もし、828回の核実験が大気圏内で行われていたら、北米大陸は、人類の住めない場所になっていたでしょう。その意味で、この歴史的事実は米国史上、最も重大な史実だと思われます。ところが、このことを知るアメリカ人はほとんどいません。

ルイーズライスと息子.jpg

<子どもたちの被曝を科学的に証明した「乳歯プロジェクト」の中心となったルイーズ・ライスさんと息子のエリック・ライスさん>

米国をより強い国にし、戦争を抑止するために作られた核兵器ですが、それは、米国民の健康と引き換えに手に入れたものです。政府は、国民が放射能汚染することを実験当初から知っていたにもかかわらず、知らせませんでした。

ぼくは、この事実をより多くの米国の人たちに知ってもらいたいと思い、映画を米国を中心に上映することを決意しました。23年から、米国の国際映画祭などでの上映をきっかけに少しずつ活動が広がっています。ハリウッド俳優のアレック・ボールドウィンさんは、ナレーションをボランティアで引き受けてくれました。多くの人たちの支えで静かにゆっくりですが、前進していることを感じています。

米国議会で、この問題を議論することで、放射能問題がトレンド化する。そうすれば、日本でも、放射能の問題が「旬」のテーマになる......かもしれない。そう夢見て、まだまだ活動を続けていきます。

セントルイス国際映画祭resize.jpg

<セントルイス国際映画祭での正式上映>

最新記事