ノンフィクション作家・高瀬毅さん 戦争抑止の可能性を考える 「熱狂こそが敵」【戦争と向き合う】③

高瀬 毅
ノンフィクション作家・高瀬毅さん 戦争抑止の可能性を考える 「熱狂こそが敵」【戦争と向き合う】③

民放onlineは、シリーズ企画「戦争と向き合う」を新たに始めました。各放送局で戦争をテーマに番組を制作された方を中心に寄稿いただき、戦争の実相を伝える意義や戦争報道のあり方を考えていきたいと思います。

第3回はノンフィクション作家の高瀬毅さん。英BBCの事例や作家の半藤一利さんの言葉を挙げながら、戦争を報じるメディアのあり方と、戦争抑止の可能性を考えます。(編集広報部)


広島、長崎の被爆者の声を、生涯を通して記録しつづけたあるジャーナリストの先達が、30年ほど前にこんなことを言っていた。

「映像を瞬時に全世界に伝えられる技術が発達することによって、戦争にともなう殺人行為が、殺す側の眼前にあらわれる。核兵器が作りだした地獄をありありと映し出すテレビ画像。それを見つめる億単位の人間の眼を、『抑止の力』にできる可能性が生まれてきた」

映像技術は、その後普及したインターネットとスマートフォンの登場によって、誰もが掌中の画面であらゆる情報を知り、自ら動画発信もできるまでに発達した。個人が「メディア」を持ち、「メディア」となる可能性を手にいれたのだ。世界で起きたことは、ほぼ誰かの「手」によって世界へ伝達される。つまり地球上の出来事の多くが世界から見られ、検証されるという時代を迎えたことを意味する。かつて先達が言った「抑止力」は格段に高まったと思った。

しかし、ロシアのウクライナ侵攻とイスラエルの「ガザ虐殺」は、希望をやすやすと打ち砕いた。世界80億人が注視する中で白昼堂々、ロシアのプーチン大統領は独善的な行為に打って出た。自己正当化の権化となったイスラエルのネタニヤフ首相は、大量殺人を「人質を取り戻すにはこの道しかない」と言ってはばからない。

それでも核兵器はさすがに使えないのではないか。そう思いたい。しかし小型の戦術核は、破壊力において通常兵器と近接している。都市ごと吹き飛ばすのではなく限定的なエリアで使用する誘惑にかられないという保証はどこにもない。倫理やモラル、理性を失い、妄想と欲望につかれた権力者を止めるのは難しい。

しかも戦争は、いったん始まったら終わらせるのは至難のワザだ。おそらく戦争を始めた最高権力者にもできないだろう。戦争のもう一つの恐ろしさはそこにある。「戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しい」という悲しい歴史の教訓は、いま私たちの目の前で日々証明されつづけている。

「戦争の原因は狂的な、そして獣的なメカニズムに人間的なものが沈黙し、あきらめることにほかならない。自己放棄だ。そして自己放棄というものは往々にして断固たる決意とか、熱烈たる忠勇とかいった仮面をかぶってあらわれるものだ」

これは作家の半藤一利さんが、2022年11月12日放送(23年9月2日再放送)のNHK・ETV特集『半藤一利「戦争」を解く』の中で語った言葉。半藤さんは、この放送の前年に他界していて、生前に収録した話を紹介した番組だった。

メディアは自国の戦争をどのように伝えるか

20世紀以降の戦争は、国民総動員の総力戦となったため、国力や国民、戦闘員の疲弊と、国際政治の力学が絡み合った末に「終結」する。戦争を止める特定のヒーローはいない。戦争が始まったら、それぞれが殺戮の非人道性を告発し、戦争を止めるための行動をしていくしかない。メディアは、極力「現場」で何が起きているかを取材、報道することだ。ただ、それも他国の戦争ならば客観的報道はできるだろうが、自国が戦争に関わった時、冷静な報道をするのは難しい。しかし、できないことでもない。

1982年、南大西洋のフォークランド諸島をめぐって英国とアルゼンチンが軍事衝突を起こした。「フォークランド戦争/マルビナス戦争」である。英国領の同島に、アルゼンチンが領有を主張して軍隊を上陸させたのに対し、英国が軍隊を派遣、奪回に成功した。時の英国首相はサッチャー。この勝利でサッチャー人気が沸騰する。ところが、英国の公共放送BBCは、「イギリス軍」「アルゼンチン軍」と伝えつづけた。サッチャーは「わが軍」と愛国的な表現を求めたが、BBCは「軍の士気を高めるのはBBCの仕事ではない」「ポーツマスの未亡人とブエノスアイレスの未亡人には、なんら違いはない」と突っぱねた。ほかにもBBCは、自国が当事国となった紛争でも、国家と距離をとった報道をしてきた実績がある。

今回のイスラエル・パレスチナ紛争で、ハマスについて欧米の多くの政府が "テロリスト"だと非難した。だが、BBCはそう表現せず、政府や市民から批判や抗議の声があがったと「NHK国際ニュースナビ」が伝えている(2023年11月22日)。その中で、「なぜBBCはハマスを"テロリスト"と呼ばないのか」について、2019年に改訂した「編集ガイドライン」があることを挙げていた。次の通りだ。

「テロリズムは、重大な政治的色合いを伴う難しく感情的なテーマで、価値判断を伴うことばの使用には注意が必要だ。出所を明示せず、テロリストという用語を使うべきではない」

「『テロリスト』ということばは、理解の助けよりも妨げになる可能性がある。われわれは何が起きたのか説明することで、視聴者に全貌を伝えるべきだ。他者のことばをわれわれ自身のことばとして採用すべきではない。われわれの責任は客観性を保ち、誰が誰に対して何をしているのかを視聴者がみずから判断できるように報道することだ」

BBCの報道には当然のことながら賛否がある。しかし、ジャーナリズムに必要な真の意味の客観性=「冷静さ」を反映していることは間違いない。

「熱狂はダメだ」

前述の作家・半藤さんに以前、雑誌のロングインタビューをしたことがある。日本史の中で好きな人物ベスト3を尋ねたら、即座に返ってきたのが、「勝海舟、山本五十六、永井荷風」。その中で永井についての話は特に印象残っている。「熱湯の中に一つゴロンと転がっている冷たい石のような人」。戦中、軍部のみならず国民もこぞってバスに乗り遅れるなだの、大勝利だだのと熱狂する中、荷風一人、輪の中から外れたようにせっせと浅草に通いつづけた。しかし丸眼鏡の奥の目は冷めていたのだ。

「熱狂はダメだ」と、半藤さんはことあるごとに言っていた。熱狂は、戦時下だけにあるのではない。平和な日常の中にもある。オリンピックやワールドカップなどの世界的スポーツイベントや、アスリート、俳優、特定の政治家などへの大絶賛報道として、よく見られることだ。視聴率が取れるほど報道は過熱する。視聴者はあおられる。それが、何かのきっかけで戦争にすり替わる日が来ないと自信をもって言えるだろうか。

いったん始まった戦争を止めることは容易ではない。国民総動員で戦わざるを得ない現代の戦争は、多大な犠牲を払う。そうならないためには、戦争に至る道をふさぐことだ。戦争につながる危険な「芽」を、小さな段階で摘んでいくことだ。一見平和な日常に、戦争の種は撒かれるのである。それは、いま、この時にも生じているかもしれない。テレビやネットに飛び込んでくるニュースのなかに、禍々しく、剣呑な火種を見つけるのはさほど難しくない。むろん日本においても。

戦争を止める方法が辛うじてあるとすれば、日ごろから一人ひとりが、マジョリティーを疑い、一体化しないこと。距離を持つこと。熱狂が最大の敵だと、不断に意識しておくことだと思う。それでも「持っていかれる」のが「戦争の狂気」だということも。

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