『ウルトラ』と『金妻』を横断する閃き ――飯島敏宏さんを偲んで

樋口 尚文
『ウルトラ』と『金妻』を横断する閃き ――飯島敏宏さんを偲んで

1932年生まれの飯島敏宏(2021年10月17日没、89歳)の生涯は、民放ドラマ史そのものであったと言えるだろう。戦前戦中の多くの子どもたちがそうであったように、飯島は雑誌「少年倶楽部」に描かれる大陸雄飛譚や時代劇のファンタジーに夢中な"軍国少年"であったが、願書を出していた陸軍幼年学校で教育を受けられる年齢の13歳になる直前に敗戦を迎える。

そして戦後、多感なハイティーンの飯島を直撃したのが小説、映画、音楽をはじめとする絢爛たるアメリカン・カルチャーである。敗戦でとてつもないパラダイム・シフトを経験し、一転豊饒なアメリカ文化・風俗にまみれたこの青春期が、のちのテレビマンとしての飯島のカラーを決定づけたに違いない。当時のことを飯島に尋ねると、慶應義塾大学文学部英文科に進んだころにはペーパーバックのシグネット・ブックなどを渉猟し、ちょうどそのシリーズの寵児となっていたミッキー・スピレーンを愛読していたという。

この大学時代に民放連後援のラジオドラマコンテストがあって、優勝作は当番会社のラジオ東京で放送されることになっていたが、ずっと小説家志望だった飯島が試しに脚本を書いてみたら入選し、この幻のデビュー作『都会の人』も番組化された。こうしたこともきっかけとなって1957年に、飯島はラジオ東京テレビ(KRT、のちTBS)に採用された。ラジオ東京テレビは1955年に開局したばかりであったから、まさに飯島は草創期のテレビ局の息吹きのなかに飛び込んだわけである。

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<『ウルトラQ』を演出中の飯島>

*筆者著『テレビヒーローの創造』(筑摩書房)より転載

飯島はすぐに演出部に配属されたが、なにぶん新興のテレビ業界は当時黄金期を迎えていた映画業界からは格下に見られて人材もインフラも提供してもらえなかったので、さまざまな分野の才能がかき集められて試行錯誤の番組づくりにいそしんでいた。したがって「演出上の師匠はいなかった」と明言する飯島は、いくつかのドラマに演出補でついているうちに、なんと入社した年の暮れにはドラマ『ますらを派手夫会』で早くも初演出を担当することになる。これも仕事を嫌がった演出部の先輩から回された結果であったり、一方では1958年の『維新風雲録』のようにメインで演出しているのにクレジットは演出部の班長の名前になっていたりと、テレビドラマのあけぼのはなかなか雑然騒然としていたようだ。

ともあれ1959年の吉川英治原作『鳴門秘帖』からは「演出 飯島敏宏」の一枚看板が堂々定着するのだが、本作や1961年の東芝日曜劇場『赤西蠣太』などは幼年期の時代劇好きと青春期のアメリカ文化志向がうまい具合に融合して、モダンでスピーディーな新型時代劇を生み出した(伊丹万作版へのオマージュ高じて『赤西蠣太』ではあまりに破天荒なスラップスティック風味を狙うあまり「東芝日曜劇場」担当をクビになった!)。

そして先輩ディレクターたちが時代劇を毛嫌いするなか、「時代劇は飯島」と定評を得て1961年には『銭形平次』をやってほしいと請われるが、これがスポンサーの希望により急きょ現代劇を、という企画変更になった。そこで飯島はいっそ『銭形平次』を現代版にしたような、キザな推理作家がピストル片手の名探偵となって難事件を解決してゆくハードボイルド風の娯楽作『月曜日の男』を提案し、これが驚くほどの視聴率を稼ぐことになる。本作もチャンドラーやスピレーンに耽溺して青春を過ごした飯島にはかっこうの題材であった。 

特筆すべきは、まだ当時は(VTRの機材の操作も難しく、またVTRテープも高額だったので)ドラマさえ生放送が基本であった時代に、細かく指示出しをしてスピーディーなカット割りや場面転換を試みていたことで、ただ俳優の芝居を淡々と撮っていることの多かった生ドラマのなかにあって、こうした飯島のスマートで快調なドラマ技法は異彩を放っていた。のちの飯島作品を特徴づけるきびきびとした高速でコミカルな味の漂うモダンなストーリーテリングは、なんとまだ技術的な制約の多いテレビ局草創期から芽生えていたのだ。

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<飯島には著書も多い>

ことほどさようにスタジオドラマで腕を磨いた飯島は、主に16ミリフィルムによって全篇仕上げられたテレビドラマ=テレビ映画(VTRが機動的になる70年代後半までは、スタジオ収録のドラマに加えてこの形式が長く採用された)の時代の訪れとともに、活躍の舞台を外部の制作プロダクションに移すことになる。1967年の山田洋次脚本『泣いてたまるか』『レモンのような女』などの作品がそれにあたるが、なんといってもこの季節に飯島の生涯のトレードマークとなる仕事となったのは、1965年に円谷プロダクションに出向して手がけた『ウルトラQ』『ウルトラマン』であった。

特に『ウルトラマン』での飯島の役割は、最初の監督としてまず第二話、第三話を先行して制作し、その工程で番組の世界観、設定やチームワークを固めて円谷一監督の第一話に渡すという重要なものだった。したがって、あの『ウルトラマン』で視聴者に大きなインパクトを与えた、閃光のなかをウルトラマンが飛び出してくる変身ビジュアルや「シュワッチ」という気合の声などの基本設定づくりにも飯島は深くかかわることとなり、ウルトラマンの必殺技「スペシウム光線」に至っては飯島の命名である。

ちなみに飯島にその「シュワッチ」の由来を尋ねると「英字新聞のカートゥーンで日本のマンガにはない"SHWAAAACH!"みたいな擬音が入っている感じを狙った」(!)とのことだった。こののちも続く『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』などテレビ映画の至宝とも言うべき円谷プロ作品群では、正調でウィットに満ちたスマートなストーリーテラーとして飯島が活躍し、一方で後輩の異才・実相寺昭雄が破格の手法で変化球を投げるという両輪がシリーズを豊饒なものにした。

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<2019年3月の「冬木透コンサート」楽屋にて。
写真右より中野昭慶氏(東宝特技監督)、飯島敏宏氏、高橋奨氏(指揮者)、
西恵子氏(女優・『ウルトラマンエース』美川隊員役)、
ひし美ゆり子氏(女優・『ウルトラセブン』アンヌ隊員役)、
満田かずほ氏(円谷プロ監督・かずほの表記は禾の右に斉)、筆者・樋口>

*筆者提供

さて、その後の飯島は1970年、大阪万博の年に木下恵介プロダクション(79年より木下プロダクション)の設立に際して出向となり、演出のみならずプロデューサーとして腕をふるった。そして、倉本聰脚本『冬の華』、山田太一脚本『それぞれの秋』、向田邦子脚本『冬の運動会』などホームドラマの傑作を続々と生みだした飯島は、80年代に入るとさらに画期的なホームドラマの企画を思いつく。それが1983年に始まるTBS金曜ドラマ枠の『金曜日の妻たちへ』シリーズだった。

60年代から70年代までのホームドラマの主婦は、タテ社会の縮図である家庭のなかで忍耐し、やがて不倫や家出といったかたちで反逆を試みてきたが、80年代の団塊の世代の主婦は三世代同居も合理的に解消し、地域にヨコ型に根をはって、夫とも対等に向き合いつつ、郊外のニュータウンで新たなライフスタイルを愉しもうとする。通称『金妻』シリーズで描かれたそれまでにないヒロインたちは、友情の延長のような「不倫」で話題となったが、これは好奇心あふれる飯島のジャーナリスティックな嗅覚がとらえたものだった。

飯島は筆者に「『金妻』が華美なトレンディードラマの祖だと言われたのは心外でした。あれはそういう意味では本当にトレンディーなのであってリアリズムなんです」と語っていたが、確かに『金妻』シリーズは軽やかな風俗描写の裏に団塊の世代の連帯へのこだわりと孤立感までも描き出していた。いったいこういう群像ドラマをどこから発想したのかと尋ねると、飯島は「メアリー・マッカーシーの『グループ』を脚本の鎌田敏夫さんに渡して考えてもらいました」と言うので膝を打った。『月曜日の男』や『ウルトラマン』がアメリカのハードボイルドやカートゥーンを出自としている一方で、『金妻』もアメリカ現代文学の空気感をオリジンとしているのだった。

『ウルトラ』と『金妻』というまるで異分野の大ヒットドラマをまたぐ飯島の飄々と粋な発想の広大なレンジは、やはり"軍国少年"がアメリカン・カルチャーの奔流にまみれた時のショックが原点なのではなのではなかろうか。そして飯島の自在な発想の軌跡は、テレビドラマの草創期から高度成長期に至る時代の輝きをぞんぶんに映し出している。

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