最近よく聞く「あれもダメこれもダメという自主規制のせいでテレビがつまらなくなった」という声に、"規制する側"の中の人が答えてみました。【前編】

村上 浩一
最近よく聞く「あれもダメこれもダメという自主規制のせいでテレビがつまらなくなった」という声に、"規制する側"の中の人が答えてみました。【前編】

コンプライアンスをテーマにしたヒットドラマの影響もあってか、「あれもダメこれもダメという自主規制のせいでテレビがつまらなくなった」という声を、本当によく聞くようになりました。こうした"自主規制悪玉論"も、それが「余計な自主規制」や「制作現場の萎縮」に対する戒めとして語られる分には、むしろその通りとも言えます。しかし、近頃は自主規制そのものを悪とするような乱暴な言説も目立ち、まさに自主規制を"する側"である「考査(※)」「研修」の担当者としては少々複雑な思いとともに、「放送の自律」の軽視や否定にもつながりかねない危機感を抱いているところです。

一方、ではなぜそのような言説が受け入れられてしまうのかと考えてみると、私のような"規制する側"にもその責任の一端はあるような気がします。自主規制や考査、その基準等に寄せられる「疑問」や「批判」に対して、これまで広く一般に向け、十分な説明や情報発信をしてきたとはとても言えません。「考査」のあり方、やり方に関しても、改めるべき部分はまだあるでしょう。今回はその反省に立ち、また、ありがたくもこうした貴重な機会をいただけることになりましたので、以下いくつか、よくある疑問や批判の声にお答えしてみようと思います。 

なお、私は在京キー局で一昨年まで考査の責任者を務め、また、民放連放送基準審議会の専門部会である「考査事例研究部会」の委員として、「民放連放送基準」の"令和の大改正"(全体の3分の1に及ぶ条文・解説に見直しを加えた、2023年の大幅改正)にも全面的に携わった人間ではありますが、以下はあくまで「考査を担当してきた"中の人"の一人として、私が聞かれたらこう答えます」というものです。自身の所属する放送局や、民放連および考査事例研究部会の見解を代表するものではありませんので、その点はあらかじめお断りしておきます。

(※編集広報部注)放送局における「考査」業務とは、番組・CMの内容、表現を自社の番組基準や内規、関係法令などに照らし合わせて、問題がないかどうかチェックすることをいいます。

自主規制がテレビをつまらなくしている?

【疑問・批判】
最近のテレビ(地上波)がつまらなくなったのは、「あれもダメこれもダメ」という自主規制のせいではないか? コンプラでガチガチの制作現場では、面白い番組など作れるはずがない。

考査においては、何らかの理由があって「放送に適さない」と判断する表現について、その理由を説明した上で「これはダメ」と言うことはあっても、やみくもに「あれもダメこれもダメ」と言うことはありません。「コンプラでガチガチ」も最近よく目にする言説ですが、いずれも実態とは異なる"イメージの独り歩き"であり、誇張を含む"虚像"だと思っています。

ひとつデータを挙げます。「民放連放送基準」の条文数は、基準がほぼ現行の形に整った1970(昭和45)年には、全部で143条でした。それから半世紀以上がたった2024(令和6)年現在は151条。世の中の価値観も放送を取り巻く環境もこれだけ大きく変わった中で、増えたのは8条だけです。直近で見ても、20年前の2004年はむしろ今より多い152条でした。つまり、内容の修正やアップデートはあったにせよ、「番組制作のルールや縛りが最近とみに増えた」といったことは、少なくとも放送基準の条文数で見る限りは、事実として「ない」ということです。

また、実際の考査の中身を見ても、かつてあったいわゆる"言葉狩り"と言われるような考査は、確実に減っているはずです。具体的には、たとえば「『差別化』や『身分証明書』というワードは(『差別』『身分』の語の使用が"不適切"だとして)避ける」といった"行き過ぎた考査"や、「『子供』と書くのはこどもを大人の"お供"とみなす差別表現だから『子ども』と書かなくてはいけない」などといった"誤った考査"は順次見直され、なくなっていっています。

そもそも、制作現場がもし本当に「コンプラでガチガチ」なのであれば、BPO(放送倫理・番組向上機構)が「放送倫理違反」とするような深刻な問題はもちろん、日常的にSNS上で起きている"炎上"騒ぎなども、ずっと少なくすんでいることでしょう。それ以前に、考査やコンプラの担当が制作や編成を"ガチガチ"に縛れるほどの強権を有している放送局を、私は見たことがありません。あくまで"提言"の範囲内で、それでも、法令に反する表現や明らかに間違っている表現、視聴者の命や健康を損ないかねない表現は必ず直してもらっていますが、これは"ガチガチ"などと非難される筋合いのものではないでしょう。 

ただ、私たち"規制する側"も、「あれもダメこれもダメ」と"受け取られる"ような説明の仕方をしていないか、常に胸に手を当ててみる必要はあります。たとえば、私は考査にあたって、「アンコンシャスバイアス(無自覚の偏見)」「無自覚の特権」など、「無自覚の○○」というフレーズは意識的に使わないようにしています。無自覚は無自覚だから無自覚なのであり、「無自覚の偏見をやめろ」と言われたら、人は何も言えなくなってしまうからです。現場が「あれもダメこれもダメ」と言われている印象を持つのも当然でしょう。もともと、表現が適切かどうかに意図や悪意の有無は関係がなく、無自覚だった意識(偏見や特権)の存在を自覚させたところで、その意識自体が改まらない限り、不適切な表現はなくなりません。無自覚うんぬんとは関係なく、不適切な表現を見つけた時点で都度粛々と、それがなぜダメなのかを丁寧に説明していけばいいのだと思っています。 

一方の「つまらなくなった」に関して言うと、各局で日々流れる膨大な放送面積に占める、自主規制でカットあるいは修正した部分の割合など、現実には微々たるもののはずです。そのせいでつまらなくなったというのは(私は最近のテレビがつまらなくなったとは思っていませんが、仮にそうだとして)、いくらなんでも"濡れ衣にもほどがある"というものでしょう。だいたい、「面白い番組」とは「コンプラを守らない番組」のことなのでしょうか。コンプラに関しては、しばしば地上波と対比する文脈で「面白い」と位置づけられるアメリカの大手配信事業者のそれの方が、世界(米国)基準の放送コードが適用されるため、むしろ厳しいという話も聞きます。 

「自主規制」とコンテンツの「面白さ」に関係があるとすれば、それは「自主規制」ではなく、「余計な自主規制」――つまり制作現場の「萎縮」があった場合です。いわゆる"警察密着モノ"の番組で、容疑者の「手錠姿」ではなく、警察署のデスク上の「手錠」にボカシをかけた例がありました。こうした萎縮の繰り返しこそが、番組から表現の幅を奪っていくのです。萎縮の原因、責任は、制作側、考査側の双方にあります。制作側は、常に最新の基準を学び、それを正しく理解する努力をしているでしょうか。考査側は、不断の基準のアップデートと明確化、その丁寧な説明に努めているでしょうか。双方が自らの責任を十分に果たし、「どこまでならOKで、どこからがNGなのか」が正しく理解・共有されて初めて、萎縮のない、自由な番組作りが可能になります。規制は、実は規制が行き過ぎないためのものでもあるのです。 

法律ではない基準など守る必要はない? 

【疑問・批判】
誰が勝手に決めたか知らないが、放送基準や放送禁止用語にはおかしいものもある。そもそも法律ではないし、おかしい基準は守る必要などないと思っている。 

まず後段の「法律ではない」に関しては、やや認識に不足があるようです。放送法第5条は各放送局に対し、放送上守るべきルールである「番組基準」を自ら定め、それを守って放送することを義務づけています。この条文に従って民放各局が定めた「番組基準」は、ほぼ全てが「民放連放送基準に準拠する(=従う)」としていて、つまり、「民放連放送基準」は、事実上各局の(放送法上の)「番組基準」でもあるということになります。それそのものが法律でないのはその通りですが、少なくとも「守る」ことについては、明確に「法律」で義務づけられているのです。

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その上で、民放連の放送基準はもちろん、「誰(か)が勝手に決め」ているものではありません。放送基準の各条文は、番組制作や考査の経験と知識を有する各局の代表が議論を重ね、民放連会員全社に宛てた意見照会も行い、最終的には民放連の意志決定機関である理事会の承認を得て施行されます。つまり、会員社全体の"総意"として、我々自身がみんなで決めたものなのです。 

次回「後編」で説明する「放送の自律」とも関係するのですが、実はここはとても大切なところで、我々が我々自身で決めたものであるがゆえに――つまり、放送基準がむしろ「法律ではない」がゆえに、それを我々が変えたいと思えば、我々自身の手でいつでも変えられる、ということです。「おかしい基準は守らなくていい」ではなく、「おかしい」と思う基準があるのであれば、ぜひその基準の「見直し」を提案してください。「倫理」は時代時代の「社会通念」とともにあるものですから、アップデートはむしろあって当然です。提案の門戸は常に開かれていますし、現に随時見直しも行われています。 

なお、「放送禁止用語」というものはありません。考査は用語の問題ではなく、それが引き起こす状況、状態の是非を問うものだからです。たとえば障害者等に対する蔑称なども、「●●と呼んで差別された」「先ほど●●という差別的な発言がありました。お詫びします」といったケースでは、当然そのまま使用します。説明やお詫びで蔑称等に言及するのは「差別」ではなく、こうした文脈で使用を避けるのは、ことの本質を用語の問題に矮小化することにもなるからです。少なくとも私は、平成元年の入社以来この方、「放送禁止用語リスト」なるものを見たことは一度もありません。逆に好んで「放送禁止用語ガー」とおっしゃる方は、それをどこで「放送禁止」と知ったのでしょうか。 

考査やコンプラは基準が曖昧すぎる?

 【疑問・批判】
考査やコンプラの基準は曖昧ではないか? たとえば、放送では「タトゥー」(入れ墨)はNGのはずなのに、それがミュージシャンやスポーツ選手だとOKになるなど、是非の境目がよく分からない。 

考査やコンプラは「倫理」であり、倫理は詰まるところ「善悪」ですから、その基準は本質的に曖昧さを含みます。それゆえ「是非の境目」も、多くの場合「白と黒」の間に「グレー」を挟み、そのグレーにも「グラデーション」があると捉えるべきです。「答え」だけを求める人がますます増えている昨今ですが、もともと曖昧さのある基準をどう適用するかは、ケースに応じて「考える」しかありません。それを面倒と感じる人もいるでしょう。しかし我々は「プロ」の放送人として、その面倒くささに向き合う必要があります。考査やコンプラは、もともと曖昧で、また面倒なものなのです。 

ただし、もともと曖昧だとはいっても、その曖昧さに分け入って可能な限り明確にしようとする「努力」と「説明」は、"規制する側"の責任として当然必要です。それを怠れば、制作現場の萎縮を招きかねないからです。この点において、「世界の潮流」「ご時世」「この時代」「欧米では」といったフレーズは、一見それらしくても実はほぼ何も言っていないに等しい、何の意味もない説明だと言えます。世界とはどこの世界なのか。それが潮流だと誰が何を根拠に決めたのか。実際に潮流だとして、それは"倣う"べき"正しい"潮流なのか――。都合良く、いかようにでも解釈・設定ができて、むしろ基準をより曖昧にする言説ですから、私はできるだけ使わないようにしています。 

「タトゥー」の例に関しては、ここで前提とされている放送基準の理解が少々違っているのと、個人的には、「タトゥーの取り扱い」の基準は、基準の中ではむしろ明確な部類に入るようにも思っています。普段から問い合わせの多いテーマでもあり、「考査」の実際を知っていただく具体的なケーススタディにもなると思うので、次回「後編」は、この「タトゥーの取り扱い」を詳しく「考査」してみるところから始めようと思います。 

【後編】につづく)

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