(【前編】はこちらから)
後編では、「タトゥーの取り扱い」を例にまず実際の「自主規制(考査)」がどう行われているのかを知っていただいた上で、あらためて「自主規制はなぜ大切なのか」を考えてみたいと思います。
※以下の考査見解などは、「考査の担当者の一人として、私ならこう判断します」というものです。自身の所属する放送局や民放連の見解を代表するものではありませんので、その点はあらかじめお断りしておきます。
「タトゥーの扱い」は基準が曖昧?
【疑問・批判】(再掲)
考査やコンプラの基準は曖昧ではないか? たとえば放送では「タトゥー」(入れ墨)はNGのはずなのに、それがミュージシャンやスポーツ選手だとOKになるなど、是非の境目がよく分からない。
【ケーススタディ】
A ミュージシャンでもスポーツ選手でもない人のタトゥーは、どうすれば放送できるのか?
B 「フィクション」であるドラマやアニメの登場人物のタトゥーなら問題ないのか?
C タトゥーではなく「タトゥーシール」をした人なら問題ないのか?
まず、放送でタトゥーを扱う際の基本的な考え方を整理しましょう。民放連の放送基準がタトゥーに言及している箇所は、実は以下の一文が全てです。
【民放連放送基準第19条・解説文(※1) 抜粋】 |
※1(編集広報部注)民放連放送基準の「解説文」は、各放送局が誤解なく放送基準を運用するために条文の解釈を示したもの。
ご覧の通り、「ミュージシャンやスポーツ選手はOK」はもちろん、「タトゥーはNG」とさえ、どこにも書いてありません。つまり冒頭の「疑問・批判」は、前提となっている放送基準の理解がそもそも違っているのですが、では、放送基準のこの規定は本来どう解釈すべきなのでしょう。
タトゥーについては、そもそも違法でもありませんし、今や"ファッション"として一般市民にも広がりつつあること、また、インバウンドの激増などもあって、放送においてももはや物理的にNGには"できない"現実があります。しかしその一方、
● 健康な体にわざわざ刃物で傷をつける行為であり、また、ピアスと違って医療行為でもないため、安全を管理する社会的な仕組みも整っていない
● 一部で市民権を得つつあるとはいえ、反社会的勢力や風紀を乱す行為としてのイメージも依然根強く、社会全体で見れば今も賛否(受容の度合い)が大きく分かれている
● 偏見や忌避感情にさらされる、公共施設の入場を拒否される、仕事や採用で不利になるなど、現実にさまざまな不利益がある
● 不利益が大きい、イメージと違った、飽きた、価値観や環境が変わった/変えたい等の理由で「消したい」と思っても、一度入れたら容易には消せない、つまり"若気の至り"ではすまないものである
といった問題を今なお孕んでいることも、紛れもない事実です。特に最後の「若気の至りではすまない」というのは、通常のファッションや、ピアスとも全く異なるところで、これはタトゥーの取り扱いを考える上で、非常に大きな要素となります。不特定多数に情報を一方的に"送りつける"メディアである放送は、視聴者の「自己責任」以前に、放送が視聴者や社会に与える影響に対する責任=「放送責任」を考えなくてはなりません。放送基準が"現実的対応"としてタトゥーをNGとはしない一方、わざわざこの規定を設けているのは、彼ら若者の「将来」に対する「放送責任」を考えてのものなのです。
そして、「児童・青少年の模倣」を避けるため「表現に留意」しましょうとうたうこの規定は、それだけで事実上、放送でのタトゥーの取り上げ全体に一定の制限を加えることにもなります。児童だけならともかく、「青少年」の視聴を想定するということは、時間帯によるゾーニングはほぼできません。結果的に、対象は「全ての番組」ということになります。また、いくら「表現に留意」したところで、放送はそこで取り上げただけで甚大な「誘引効果」を持ちます。"見慣れた光景"としての「刷り込み効果」も大きく、まだ小さいうちからタトゥーに対する心理的なハードルを下げる影響も無視できません。つまり、「児童・青少年の模倣を避ける」ということは、タトゥーを「取り上げる」ことそれ自体に慎重さを求めることにもなるのです。
以上を踏まえて、「タトゥーの取り扱い」に関する考査としての考え方をまとめると、以下のようになると思います。
① 大前提として、放送ではタトゥーをすすんで取り上げることはしない。
② 必然性があって取り上げざるを得ない場合は、タトゥーの「アピール」にならないようにする。具体的には、露出は最小限にとどめ、特に"魅力的"に見えるような演出、描写は厳に避ける。
なお、先に挙げた問題点の中でも、偏見や忌避感、それに基づく不利益などは徐々になくなっていくでしょうから、この判断もそれに応じ、いずれ見直される日が来るかもしれません。「前編」で述べた通り、それはむしろあってしかるべきことだとも思っています。
「タトゥーの取り扱い」のケーススタディ
では「ケーススタディ」に移りましょう。まず「ミュージシャンやスポーツ選手のタトゥー」ですが、これはあくまで、「取り上げざるを得ない必然性のある人物がたまたまタトゥーをしている」という"建て付け"の話になります。"映り込み"が物理的に避けられないため、アピールにはならないよう留意しつつ扱っているものであって、こうしたケースがミュージシャンやスポーツ選手に特に多い、ということにすぎません。取り上げる必然性のある場合は、その人の職業が何であろうが全く関係ありませんし、逆に、必然性がない人のタトゥーを取り上げるのは、それがミュージシャンでもスポーツ選手でも、基本的には避けるべきでしょう。
まして、ケース「A」の「どうすれば放送できるのか」というのは、「タトゥーを見せる」ことが「目的」になっている時点で放送基準の趣旨を無視していますから、その意味で「不適切」と言えます。なお"偶然"映ってしまう、つまり、制作者側に映す「意図」がなければ問題ないのではないかと聞かれたこともありますが、これは「差別表現」などと同じで、「放送責任」というものは、現に何が映っているか(何を放送するか)、それが視聴者にどのような影響を与えるかに対して負うものです。意図的なのは論外ですが、意図のないことも"免罪符"にはなりません。前提として、そもそも映らないような工夫をすべきですし、もし映って(しまって)いることに気づいた場合は、生放送ならフレームから外す、収録ものなら編集でカットするなど、可能な範囲での努力は当然すべきでしょう。
"応用問題"となる「B」「C」は、いずれも「"本物の"タトゥー」の「アピール」になるかどうかを基準に、それぞれケースごとに判断することになります。
「B」、「フィクション」の場合ですが、まず反社会的勢力、不良行為の象徴・表象として描かれているタトゥーについては、それが明らかに"そういうもの"としてネガティブに描かれている分には、まず問題はありません。刑事ドラマなどで、あくまで悪事・犯罪であるという前提において、殺人や強盗のシーンを描き得るのと一緒です。時代劇の入れ墨も、それが現代のタトゥーと同一視されることはまずないでしょうから、これも問題ないでしょう。
考えるべきは、特に現代のリアルの社会を舞台にした作品に「タトゥーがカッコイイ(オシャレな)人」が出てきたり、出てくる「カッコイイ(オシャレな)人」や視聴者の「人気者」がタトゥーをしていたりするケースです。「フィクション」であることを明示している以上、見る側にもそれ相応の「自己責任」は生じると考えるべきですし、その分多少"割り引く"ことはあっていいと思いますが、一方で、見る人、特に将来ある若者にタトゥーを「カッコイイ」「オシャレ」と思わせてしまうような、「現に与えてしまう影響」に対する「放送責任」も、やはり考えないわけにはいきません。タトゥーをしたその人物が登場する必然性、あるいは登場人物がそのタトゥーをしている必然性をよくよく突き詰めた上で、必然性がある場合には、その人物やタトゥーの描き方、撮り方、デザインや部位、サイズや登場回数等々の工夫によって、可能な限り「アピール」にならないような見せ方を「考える」ことになります。原作のある作品なら、原作者の意向と作品の世界観も当然考えなくてはいけません。結果としてカットや差し替えになるケースもあれば、逆に"そのまま"となるケースもあるでしょう。それが「表現の自由」というものですし、何より大切なのは、それが真摯に「最大限の配慮をした結果」としてのものなのかどうかだと思います。
「C」の「シール」、つまり、タトゥーが"偽物"ならどうかという話については、「タトゥーシール」自体には危険性はありませんし、何より消したければいつでも消せるものですから、"若気の至り"うんぬんを懸念する必要はもちろんありません。放送での取り扱いは、それが「シール」であると明示した上で、見る人にあくまで「タトゥーの『シール』っていいよね」と思わせるにとどまると判断できるなら問題ないでしょうし、それでも結局「(本物の)タトゥーっていいよね」と思わせてしまう可能性が高いと判断するなら、その場合は避けた方がいいでしょう。判断の境目はまさにケースバイケースであって、当該の映像や文脈、シチュエーション等に照らし、都度我々が自ら「考える」しかありません。もう一点、いくらシール、偽物だといっても、年端もいかない子供が貼っているところを露出するのは、「これは偽物だから問題ないのだ」といった理屈まではまだ理解できない児童(当該児童とこれを見る児童の両方)に与える影響を考えると、私は慎重であっていいと思います。
「考査」は日々このように行っているのですが、いかがでしょう? やはり自主規制やコンプラは「基準が曖昧すぎ」でしょうか。
放送の「自主規制」はなぜ大切なのか
Ⅰ.「規制」が守る「自由」~「放送の自律」というソリューション~
放送に本来規制などない方がいいのは、言うまでもありません。憲法でも保障された「表現の自由」は、基本的人権の中でも優越的地位を有する、特に重要な人権です。ただその一方、自由や権利はそれが他者の自由や権利と衝突する際は"調整"が求められ(「公共の福祉」)、自由の「濫用」は、同じく憲法で明確に禁止されています。つまり「表現の自由」が大切なのは当然のこととして、だからと言って「そもそも"何でもあり"ではない」という点は、押さえておきたいところです。
その上で、では「濫用」の"基準"はどこにあり、その判断は"誰が"するのでしょう。これについては、実は「放送法」の冒頭、第1条にはっきり答えが書いてあります。
【放送法】 |
放送法は最初に放送を「規律」すると宣言しつつ、その規律に際しては、放送(事業者)の①「不偏不党」=立場については、戦前戦中のような"翼賛報道"をしなくていいこと、②「真実」=内容については、同じく"大本営発表"をしなくていいこと、③「自律」=規律の方法については、同じく"検閲"など外からの規制は受けず、自主規制でいいこと、この3つを「保障」――つまり、"権利"として保護することによって、「表現の自由を確保する」と約束してくれているのです。「自律」とは「自分で決めたルールをきちんと守って行動する」ことです。広い意味では「不偏不党」「真実」も、これに含まれると言っていいでしょう。ルールを決めるのも守るのも「自分自身」なのですから、その権利が保障されている限り、「表現の自由」も事実上担保されることになるわけです。「放送の自律」は一見相反する放送の「規律(規制)」と「表現の自由」を両立する"ソリューション"として、放送倫理の根幹をなす最も重要な概念の一つです。我々はそれが法によって明確に保障されているありがたさを、各々がもっとよく理解し、大事にするべきだと思います。
もちろん"権利"である以上、それを「行使しない自由」、つまり「"自主規制しない"自由」もあるでしょう。しかし、これも憲法に「(自由や権利は)不断の努力によつて、これを保持しなければならない」とある通り、自由や権利というものは、当たり前にずっとそこにあるものではないのです。行使されない権利は「不要」と見なされ、いずれ失われます。そして意外に忘れられがちなのが、「『放送の自律』が法によって保障されている」というその"ありがたい"仕組み自体、主権者たる国民の「支持」があって初めて存続できているのだ、という点です。
国民の「信頼」を損ねる、自由の「濫用」と言うべき不適切な放送内容はもちろん、「濫用」を放置しながら「自由」ばかりを声高に叫ぶような仕草も、国民の「反発」を招くことになり、放送と放送の自律に対する「支持」を着実に毀損していきます。放送に対する「不信」に加え、「嫌悪」が「民意」となれば、メディアを規制したい公権力にとってはまさに渡りに船、放送法の改正など実にたやすい話です。その先に待ち受けるのは、何が「良い放送」かをすべて権力(者)が決める――まさにいま目の当たりにしているどこかの国のような世界かもしれません。「何をおおげさな」という方は、今年7月に行われた東京都知事選の「ポスター問題」を思い起こしてみてください。「表現の自由」をうたって掲示された"ほぼ全裸"のポスター等がもたらした結末は、与党党首による「公選法改正の合意」でした。規制は自分でしなければ、されてしまうのです。
<放送法にもとづく「放送の自律」の保障、「表現の自由」確保の仕組み>
Ⅱ.SNS時代に求められる「信頼」~放送の価値と役割、そして使命~
放送の自主規制の意義については、いま述べた「放送の自律」という観点に加え、今後はさらに「SNS時代における放送の役割」という観点から、より積極的に捉え直してみることも必要だと思います。SNS時代には「信頼(されるコンテンツとメディア)」の価値と役割がより大きくなるため、「自主規制」することにはむしろ「メリット」もあり、それゆえ放送が「生き(残)る道」にもなる、という前向きな考え方です。
まず、誰もが発信者になれるSNS時代は、玉石混淆あらゆるコンテンツが流通する時代です。特に「"石"=信頼性の低いコンテンツ」が爆発的に増えるため、「"玉"=信頼性の高いコンテンツ」は相対的に価値が向上します。また、"玉"だけをそろえたメディアは、「ブランドセーフティ(※2)」の観点から「広告媒体」としてもより高い価値を持つことになります。「なんでもあり」の時代だからこそ、「なんでもありではない」ことが価値を持つのです。「タブーに挑戦」「ギリギリを攻める」といった「なんでもあり」がウリになったのは、メディアがテレビの文字通り"独擅場"だった平成半ばまでの話です。タブーもギリギリもないコンテンツがネット上にいくらでもある令和の今、もはやそんなものに大した価値はありません。「なんでもあり」のメディアと「なんでもありではない」メディアの、「役割分担」が進みつつあるのです。
※2(編集広報部注)ブランドセーフティ=広告掲載先の品質確保による広告主ブランドの安全性(ブランドを毀損する不適切なページやコンテンツに広告が表示されるリスクからの安全性)をいう。
SNS時代はまた、社会の「分断」と「対立」が深刻化する時代でもあります。人々がつながりたい人とだけつながり、見たい情報だけを見、フェイクニュースや陰謀論が蔓延する不安定極まりない社会には、分断の両岸に(見たい情報だけでなく)「見るべき」「正しい」情報を届け、いわば社会の"羅針盤"となり得る「信頼されるメディア」が絶対に「必要」であり、その役割は今後ますます「重要」になっていきます。
その点放送は、①長年かけて培った(今も相対的に)高い信頼度と、②9割を超える高い世帯普及率を有し、③(インターネットにつながっていない)「オフライン」かつ、(オンデマンドではなく)「リニア(※3)」でコンテンツを発信する「オフリニアメディア(Offlinear Media)」(「Offline」と「Linear」を引っかけて私が勝手に考えた造語なので、検索等はしないでください)という特性を持っています。いわゆる「フィルターバブル(※4)」や「エコーチェンバー(※5)」の外にあって膨大な不特定多数、すなわち「マス」にリーチし、「信頼」を担保に「見るべき」「正しい」情報を届けることができる――つまり、今のこの「分断」と「対立」を超克し得る可能性を持つ、唯一とも言えるメディアなのです。SNS時代における放送の「役割」「使命」として、我々は「信頼されるOLMM(Offlinear Mass Media=オフリニアのマスメディア)」であろうとし続ける努力をすべきですし、それこそが放送の「生き(残)る道」にもなるのだと思います。
※3、4、5(編集広報部注)
リニア=発信側が決めた内容・順序に従ったコンテンツ配信。リアルタイム。
フィルターバブル=アルゴリズムによって、インターネット上で、利用者個人のクリック履歴に基づく情報が優先的に表示される結果、本人も気づかないうちに自身の考え方や価値観に近い情報ばかりに囲まれる、いわば「泡」の中に包まれるような状態を指す。
エコーチェンバー=ソーシャルメディア等において、自分と似た興味関心を持つ利用者が集まる場でコミュニケーションする結果 、自分が発信した意見に似た意見が返ってくる(特定の意見や思想が増幅・先鋭化する)状態を、閉じた小部屋で音が反響する物理現象に例えたもの。
ただし、「信頼される」ことは、放送が生き残っていくための必要条件ではあっても、十分条件ではありません。「面白ければいい」メディアと棲み分け、かつ伍してやっていくには、それに負けない「面白さ」も同時に必要です。その点これも放送には、先の①~③の特性に加え、④半世紀以上にわたってあらゆるジャンルの無数のコンテンツを制作し続け、分刻みの(おそらく世界一)厳しい視聴率競争で磨き上げてきた高い制作能力という、何物にも代えがたい"財産"があります。我々はもはや「あれもダメこれもダメという自主規制のせいでテレビがつまらなくなった」などとのんきに嘆いている場合ではなく、今や「信頼」と「面白さ」とを高いレベルで両立できる"プロ中のプロ"として生き残っていく、その「覚悟」と「矜恃」を求められているのでしょう。