なぜ冤罪事件はなくならないのか

里見 繁
なぜ冤罪事件はなくならないのか

人が人を裁く限り「誤審」は必ずある。だから「冤罪はなくならない」。それ故に、冤罪を発見した時に、ただちに修復する回路(=再審法)が必須であるのに、その回路が錆びついて機能していない。それが、この国の刑事司法の実態だ。冤罪に絡めとられた人の救済は進まず、雪冤まで半世紀以上もかかるという世界最悪の人権侵害を生んでしまった。

密室では、誰もが嘘の自白をする

冤罪は、簡単に生まれる。特に、自白だけで有罪が決まるこの国では(憲法は、自白を唯一の証拠として有罪とすることはできない、と定めているにもかかわらず)、冤罪は日常茶飯事である。大げさではない。

やっていなければ、嘘の自白なんてするはずがない、と多くの人が思っている。私も思っていた、でも間違っていた。1991年に『全員無罪―147人の自白調書―』という番組を作った。大阪府下での参院選に絡む選挙違反事件だった。147人全員がその罪を認め、ほとんどが略式起訴された。罰金を納めて一件落着、のはずだった。だが、事件を受けた弁護士が供述内容の不自然さに気づき、問い質したところ、全員が「嘘の自白をした」「事実無根」だという。弁護士が彼らを説得し、正式裁判で争うことにした。ただし、裁判に加わらない人もいた。嘘でも自白をしたからには、今から覆したらお上に迷惑がかかるという人がいた。また、神様からお告げがあって、この裁判には勝てないという人がいた。裁判の途中で亡くなった人も何人かいて、結局、最終的には122人が無罪判決を受けた。

恰幅のいい社会的地位のある人が、なぜ、刑事の言うままに嘘の自白をしてしまうのか。その手練手管を詳細に紹介する紙幅はないが、取調室でセミの鳴き真似をさせられたという人は、人生で最悪の屈辱だったと回想した。府警の窓の外から聞こえてくるセミの声に合わせて(当時、大阪府警には冷房がなかった)「ミーンミーン」と壁に向かって声を出しながら涙が止まらなかったという。また、頑張って否認し続けても、夜中に親しい人から電話があり、「あんまり頑張っても、長引くだけや。わしは言われるとおりにしたよ」という。これも刑事の差し金である。仲間が仲間の説得にあたり、自白をしない人がむしろ事件を長引かせているような錯覚に陥ることになる。

落選した候補者にも話を聞いた。取り調べの検事から「あんたが宴会場にいなかったことは、実は分かっていた」と言われたそうだ。それなら、事件の核心部分がでっちあげだということになるが、この検事は「今から自白をした老人たちに、もう一度否認調書を書かせるのは忍びない。ちゃちゃっと片づけましょ」と平然と言い放ち、候補者はそれに従ったという。ふがいない話だが、それを指摘すると、彼は怒りだして「お前ら記者は偉そうに言うけど、実際の取調室を知らんのだ。あそこでは、誰もがそうなる」と言った。

この取材は個人的には大きな衝撃だった。それ以降、徐々に冤罪の取材にのめり込んでいった。そして、袴田巖さんの事件に出合った。この裁判でも、嘘の自白が死刑判決の決め手だった。

「前代未聞の権力犯罪」と袴田さんは書いた

今年9月、静岡地裁は袴田巖さんに「無罪」を言い渡した。1966年の事件発生から58年が経過していた。判決は犯行着衣とされた5点の衣類について、「捜査機関の捏造である」と判断した。ほかに、自白調書と自宅から見つかったズボンの端布(はぎれ)についても、捏造だとした。これは検察の犯罪行為だが、半世紀以上もそれを見抜けなかった歴代の裁判官たちの目は「節穴」だったということになる。   

1998年に『死刑囚の手紙』という番組を作った(毎日放送のYouTubeチャンネルで配信中)。獄中の袴田巖さんが姉の秀子さんに宛てた手紙を中心に据えて、袴田さんの心境や、再審に立ち向かう家族、弁護団の姿を伝えた。外の世界との唯一の絆だった手紙を通して、袴田さんは懸命に無実を訴え続けていた。30年に及ぶ膨大な量の手紙を読み終えた時、私は袴田さんの無実を確信した。裁判の記録を丹念に調べても確信は揺らがなかった。

4人が殺害されたが、死亡推定時刻はでたらめで、凶器も、逃走経路も矛盾だらけ。そもそも、当初犯行着衣とされたパジャマには血痕などなかったのに、県警は「血染めのパジャマ」と嘘をついた。新聞は、見てもいないのに、それを見出しにした。「5点の衣類」より前に、すでにこの時点で捏造が行われていた。弁護団は、これを裁判の突破口にしようと意気込んでいた。

そんな時に突然、5点の衣類が工場の味噌タンク内から発見された。パジャマを犯行着衣としたままでは、公判を維持できないと判断した捜査機関の窮余のでっちあげだった。しかし、当時は、誰もそれを見破れなかった。弁護団すらも。

「真犯人が動き出した」と袴田さんは拘置所から期待を込めて手紙に書いてきた。ところが、家宅捜索の刑事が袴田家に来て、タンスを開けると、そこからズボンの端布が出てきた。家族は、そんなものは見たこともないと否定したが、検察官は、5点の衣類は犯行着衣であり、かつ、袴田のものであると言って法廷に提出した。5点の衣類の捏造だけでなく、衣類と袴田さんを結びつける証拠まで捏造するという念の入れようだった。

「端布の出現」を拘置所で知った袴田さんは、すぐに、すべてを見抜いた。「前代未聞の権力犯罪が未だに生きている」と手紙に書いてきた。狭い拘置所の中で、捜査機関の底知れない悪意を知った袴田さんは打ちのめされるが、しかし、その後、裁判所がその捏造を見抜けず、死刑判決を言い渡した、その時の絶望には比べようもない。「その後からだね。巖がおかしくなり出したのは」と姉の秀子さんが語っている。

「確定囚は口を揃えて言う。死刑はとても怖いと。だが、実は死刑そのものが怖いのではなく、怖いと恐怖する心がたまらなく恐ろしいのだ」(袴田巖さんの手紙より)

死刑判決の後、袴田さんの手紙は徐々に減り、やがて途絶え、さらに、秀子さんとの面会も拒むようになっていった。

捏造に着手した時点で、警察と検察は、袴田さんが犯人ではない(少なくとも、有罪判決を得るための証拠はない)、ということが分かっていた。分かりながら、かつ、これで袴田さんが死刑になると知りながら、やったのである。これは殺人ではないのか。

「疑わしきは罰する」という裏の大原則

2010年にテレビ局を辞めるまでに、11本の冤罪番組を制作した。その後、大学の教員をしながら冤罪取材を続け、雑誌に書いたり本にして出版した。取材した冤罪事件は20件を超える。そこから見えてきたことを以下にまとめてみた。

「冤罪が生まれるときには、その刑事法廷では、必ず二つのことが同時に起きている。検察官(捜査機関)が証拠を捏造し、裁判官はそれを見抜けない(捏造証拠の中には、供述証拠=自白も含まれる)」

袴田さんの事件では、上述の通り、捏造の連続だった。裁判官については、地裁、高裁、最高裁、さらに再審請求審も含めると、実に20人以上の裁判官が、この冤罪を見抜くことができなかった。ただし、一審で一人だけが、無罪を主張したことが分かっているが、多数決により死刑判決となった。

「疑わしきは被告人の利益に」は、今では死語である。「疑わしきは罰する」、つまり「疑わしきは検察の利益に」が現在の刑事法廷での裏の大原則だ。そして、もう一つ「難しい科学鑑定は検察の利益に」という裏の原則もある。いずれも、検察の主張を守るための暗黙のルールである。

袴田さんの事件では、第二次再審請求審において、静岡地裁が再審開始決定を出した。この時、決定は5点の衣類に関するDNA鑑定を新証拠と認め、「捏造の疑いがある」とした。さらに、科学的な厳密さはないが、衣類についた「赤み」の実験についても、長期間味噌漬けにされていたにしては赤すぎるとして、これも新証拠の一つとした。つまり「赤み」の実験は、この決定ではDNA鑑定の補助的な役割であった。

しかし、検察の抗告を受けた東京高裁は、これらの新証拠をいずれも退け、再び請求を棄却した。まさに「難しい科学鑑定は検察の利益に」を実践したのである。後に、最高裁が差し戻した時に、DNA鑑定は無残にも捨てられたが、「赤み」の実験だけが生き残ったのは、これが「難しい科学鑑定」ではなく、誰の目で見てもごまかせない証拠だったからである。「赤み」の実験がなかったら、この事件は未だに解決していなかった可能性が高い。

冤罪は国家の犯罪である。私は「検察官は確信犯」そして「裁判官は不作為犯」だと考えている。

警察は検挙件数にこだわり、検察は有罪率に縛られている。99パーセントを超える有罪率は、巷の安寧を守り抜く、法治国家・日本の象徴として君臨している。無罪判決を阻止するためなら、証拠の捏造などまったく厭わない。冤罪は、捜査の手違いや勘違いから生まれるのではない。意図して作られる。すべて「確信犯」である。

裁判官は検察官に弱い。戦後間もないころの刑事裁判の判決を読むと、検察官の主張をそのまま書き写したような文章に出合うことがある。それが楽なのだ。目の前に引っ張ってこられた被告人は、どうせ犯人に違いない。検察官の主張と被告人の主張のどちらを信用するのか、それは愚問だ。難しい国家試験に合格し、一緒に学び、最後に道を分けた仲間である。検察官の言う通りにしていれば間違いは起きない。つまり、被告人の訴えには耳を貸さず、また、再審の請求人の訴えは放置し、(多くは高齢であるので)請求人が死ぬのを待つ。それが有能な裁判官の手際である。

袴田さんの事件では、最初の再審請求から、なんと13年余り、いかなる証拠調べもないまま放置され、そして突然、棄却された。58年を経て「無罪判決」までたどり着いたのは、姉の献身と袴田さんが頑健だったことに尽きる。「徳島ラジオ商事件」「名張毒ぶどう酒事件」「日野町事件」。これらの事件では、裁判所が審理から逃げ回っている間に、請求人は無念の涙にくれながら死んでいった。まさに「不作為犯」の連続である。

正義と公正を、身をもって示すはずの検察官と裁判官にそれがない。この皮肉こそが、この国の刑事司法に向けられた不信を象徴している。1980年代に4件の死刑冤罪が発覚し、司法の信頼は地に堕ちた。それから30数年を経て、袴田さんに無罪判決が出た。しかし、これは新しい事件ではない。長きにわたり隠そうとしたが隠しきれなかった古傷だ。つまり、裁判所はあの日から何も変わっていない。

今も、冤罪は発生し続け、検察も裁判所もその隠蔽に汲々としている。


※編集広報部注:放送ライブラリーに足利事件や布川事件などの冤罪を取り上げた番組が収蔵・公開されています(番組検索 - 放送ライブラリ公式ページ)。

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