【民放連賞テレビグランプリ対談】信越放送・湯本和寛さん×審査委員長・夜久敏和さん 分断を乗り越えるために必要なものとは

編集広報部
【民放連賞テレビグランプリ対談】信越放送・湯本和寛さん×審査委員長・夜久敏和さん 分断を乗り越えるために必要なものとは

2024年日本民間放送連盟賞(民放連賞)でテレビグランプリに輝いた『SBCスペシャル 78年目の和解~サンダカン死の行進・遺族の軌跡~』は、太平洋戦争中の1945年に現在のマレーシア・ボルネオ島で起きた日本軍の無謀な移動命令によって起きた悲劇を掘り起こしたドキュメンタリー。被害者と加害者双方の視点と遺族たちの心の傷に向き合い、互いを理解し合う長いプロセスを丁寧に描いた。この番組を通じて何を伝えたかったのか、どのような点が評価されたのか――同番組ディレクターの信越放送・湯本和寛さんと民放連賞テレビグランプリ審査委員長をお務めいただいた夜久敏和さんのお二人に対談していただいた(以下、敬称略)。

なお、テレビ・ラジオのグランプリ、準グランプリ受賞作は全国で放送されます。放送予定はこちらのページから「全国向け放送の予定」をクリックしてご覧ください。


夜久 民放連賞テレビグランプリ受賞、誠におめでとうございます。

湯本 ありがとうございます。

夜久 私は民放連賞グランプリの審査会に今回初めて関わりました。候補作は優れた番組揃いで、大変活発な議論が行われましたが、最終的には湯本さんの番組が多くの審査員の賛同を得てグランプリに選ばれました。賞が発表されたときの率直な感想はいかがでしたか。

湯本 率直に言うと、ずっと取材してきた番組で受賞したこともうれしかったのですが、そこに至るプロセス、遺族たちの取り組みそのものが評価された部分が多分にあると感じたので、非常にうれしかったです。

夜久 審査員は脚本家や作家、メディア関係者など発信者側の方がほとんどでしたが、私は長年会社勤めをした立場から、視聴者により近い目線を意識して審査に参加しました。審査会での主な意見を紹介すると、「被害者だけでなく加害者の視点にも目を向けた秀逸な企画」「双方が真実を追求しながら理解し合おうとするプロセスが丁寧に描かれている」「平和の実現のためには過去から目を背けることなく真実に向き合うことが重要だというメッセージが伝わり、若い世代に見てほしい骨太の番組」「被害者、加害者双方が知りたくない相手の真実を知ることで和解とは何か、戦争とは何かを深く考えさせられた」「ゴールデンタイムに放送した編成も含め、民放ローカル局の実力と志を強く感じた」など、高い評価を受けました。

報道記者としてドキュメンタリー番組づくりを経験

夜久 湯本さんは若い頃から放送業界で働きたいと考えていたのですか。

湯本 大学のときに国際関係を学び、政治的なリーダーの主張に人々が追随する状況がなぜ生まれるのか、その理由を探るのが卒論のテーマでした。大学院では、とくにメディアの影響を研究したので、研究者のほか、放送や新聞などを含めて自分で調べたことを世に出していくクリエイティブな仕事をしたいと思っていました。また、語学も一生懸命学んでいたので、そういうことがなるべく生かせる仕事がいいと思い、最終的に地元の長野県の放送局を目指しました。

夜久 これまでの主なキャリアや取材経験をお聞かせください。

湯本 入社して21年目になります。最初の4年間は警察関連や裁判の取材をしました。その後3年間制作部で旅やグルメなど娯楽系の番組も担当し、その後長野県南部の飯田支局に3年間いました。飯田支局での仕事はとても楽しかったですね。堅いものから柔らかいものまでいろんな分野の取材をしました。その後本社に戻り、市政や県政などさまざまな分野を担当しました。2015年以降は、ボルネオ取材による番組を皮切りに3年に1回ぐらいのペースで、ドキュメンタリー番組も制作しています。

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<信越放送の湯本和寛さん>

ある手記が取材のきっかけに

夜久 この番組は長い時間をかけて制作されましたが、そもそもいつ頃、どのようなきっかけで取り組むようになったのか、教えていただけますか。

湯本 きっかけは2015年の戦後70年のときでした。家に祖父の兄、私の大伯父の戦友が置いていった手記があり、戦場のすさまじい状況が書かれていました。これは聞いたことがないなという内容でした。その年に気象庁に取材に行った際、たまたま空き時間ができたので、国会図書館に行き、手記に関連する資料を探しました。そこに出版されていないボルネオ関連の手記がたくさんあり、その中に番組の中で取り上げている生き残ったオーストラリア兵捕虜の息子のディックさんが翻訳した本も含まれていました。これを見つけて、すぐに取材に入り、1時間の番組をつくりました。その後もディックさんとやり取りを続けていましたが、翌年、病気のため亡くなられてしまいました。番組にもありましたが、亡くなる直前に本を出されて、その本の最後に和解をしてほしいということが書いてあります。ディックさんからも亡くなる少し前に直接電話があって、和解の取り組みを進めてほしいとお話しされていたこともあり、ぜひこれを進めたいと思いました。継続取材するというよりも、ディックさんの思いを形にしたい気持ちで動いていました。その後、番組に登場するボルネオの司令官(馬場正郎中将)の孫の古井貞熙(さだおき)さんや、ディックさんの和解への思いをニュースの企画で放送したり、ボルネオでお父さんを亡くされた長野県在住の遺族を取材したりして放送していました。

夜久 一つ一つの取材は、都度ニュースとして放送していたわけですね。

湯本 その中で和解の旅を2020年に企画しましたが、ちょうど新型コロナウイルス感染症のパンデミックのため、2023年にようやく、とはいえその間に古井さんが亡くなってしまいましたが、企画が実現しました。そのときも番組化する前提は最初から強くあったわけではなく、ここは区切りだなと思いながら取材し、関係者のインタビューも撮影できたので、番組化することになりました。 

遺族であり取材者でもある立場

夜久 一つの番組にするに当たって、当然いろいろなご苦労や悩まれたことなどもあったと思いますが、そのあたりのことをお聞かせください。

湯本 自分自身も遺族というところもあり、完全に取材者だけの立場とは違うところがありました。例えば、現地では毎日夕食の後に、その日あったことを振り返る場面があり、番組の終盤でも紹介しました。自分はそこに参加して話をする立場でもあるので、取材だけに関心を寄せていればいいというわけではありませんでした。苦労という点では、例えばコロナの期間にオンラインで打合せをしましたが、2カ月に1回ぐらい大体1時間半ぐらい、英語で行うので大変でした。これも取材の立場というよりも一人の参加者として向き合うもので、大変でしたが深い話ができてよかったと思います。

今、8年間の取材を振り返ると、初めのうちは全然理解が及んでいなかった部分があります。例えば、現地の人の犠牲には関心が向いていなくて、長い年月をかける中で現地の被害者遺族であるシンシアさんの存在を知り、現地の状況もいろいろ見えてきた部分があります。一方で、遺族の方たちはそれぞれ傷を負っているので、向き合い方が難しい部分もありました。ディックさんと相談した時に「歴史を伝える者は、真実を追い求めなければならない」と言われたことがあり、こうした対話を繰り返すことで、自分自身が学んでいくというプロセスも8年の間にはありました。それも番組に反映しています。そういう場面を入れ込むことによって、視聴者に取材のプロセスにも共感してもらえる部分が結果的にできたのかなという気もしています。

夜久 戦争を扱う番組では被害者のつらさや悲しみをメインにすることがほとんどでしょう。一方で加害者、そして戦争に巻き込まれたシンシアさんの親族などの現地の人たちにも、思いを致すという番組はあまりないように思います。どういう発想で構成し、どうやって番組をつくったのかという点ですが、いろいろな立場の人の話を聞く中で、被害者だけにフォーカスするのではなく、加害側あるいは、現地で巻き込まれた人たちの悲劇も捉えないといけないという思いになったということでしょうか。

湯本 オーストラリアにはオーストラリアのサンダカン死の行進に関するストーリーがあり、マレーシアにはマレーシアでまた違う見方があり、日本は日本で自分たちの犠牲がメインになってくるんですけれども、個人でも注目する場所が違ったり解釈が違ったりします。今回は立場の異なる人たちが集まって、それぞれの話を共有して理解する旅だったので、誰か1人の視点が唯一の答えだということではありませんでした。それぞれのストーリーを通じて戦争が何をもたらすかといったことを、ナレーションで語るのではなく、そのまま見てもらえればという形にしました。

その点で大きかったのは、ディックさんが本の中で「複雑なことを複雑なまま理解することが大切だ」と書いていたことです。単純に善悪で分かりやすく区別して、自分は善で相手はモンスターだとしてしまうような発想ではなくて、戦争で生じる悲劇では、どちらが加害でどちらが被害というのも実は曖昧な部分があり、戦争自体がもたらすことを理解すべきだというメッセージがありました。そこにメンバー全員が影響されたというか、思いを受け継いだ部分もあります。

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<異なる背景を持った遺族たちによる「和解の旅」>

 対話を通じたよりよい社会へ

夜久 この番組で自分の伝えたい思いをきちんと形にできましたか。あるいは、より深掘りすべきだったとか、もっと盛り込みたいことがあったとか、反省点などはありますか。

湯本 今回、和解というテーマで、当時の日本の軍隊がしてしまったことで大勢の犠牲者が出た出来事を扱いましたが、日本人がその和解の番組をつくるということに疑問を投げかけられたことがありました。今回はディックさんの願いが発端で始めた番組なので、その要素がなければ日本人の立場として和解の番組はつくりづらかったと感じます。一方で国籍というか、ナショナリティーを突き詰めていったがゆえに戦争が起きている面があるので、ナショナリティーみたいなものを相対化して、人と人との関係がより大切だよねというところに至ることも重要だと思います。ただ、それをやり過ぎてしまうと加害の責任が曖昧になったりと、難しい部分もあります。今回の番組を現地の人やオーストラリアの人が見てどう思うのかなというところも気になりますし、こういう描き方でよかったのかなという思いもあります。

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<『SBCスペシャル 78年目の和解~サンダカン死の行進・遺族の軌跡~』について語り合う>

夜久 今回のグランプリ受賞はある意味で大きな区切りだと思いますけれども、これから取り組みたいテーマ、あるいは今、関心のあるトピックなどはありますか。

湯本 戦争を扱う番組が減っていることに加えて、戦争の教訓も同時に失われていってしまっている面もあるのかなと思い、そのあたりは引き続き伝え続けていかなければいけないと思っています。今、分断の時代と言われていますけれども、この番組で追ったテーマは、人と人が直接対面して、まさに分断が起きているところを何かを紡いで乗り越えていくということだと思います。よく言われているように、SNSの普及などによって、頭の中だけで描く世界観だけで行動した結果、対立が起きてしまっているような状況が生まれています。そういう状況を何とか乗り越えて、人と人とがちゃんと対話してよりよい社会をつくっていくためにはどうしたらいいのか、答えがすぐ出てくるわけではありませんが、今の関心はそこに向かっています。今回の番組は、対面することの重要性みたいなところがあるので、これが今後も一つのテーマになってくるかなと感じています。

夜久 今、オールドメディア VS. SNSのような文脈で、テレビというメディアのあり方が議論になっています。今回の番組は、テレビの力というものを非常にいい意味で皆さんに感じていただける、そういう番組だったかなと思います。これから全国で再放送されますが、制作者としての視聴者へのメッセージなどがありましたら、お願いします。

湯本 この番組は日本でもほとんど知られてこなかった事実を取り上げています。同様のことがまだたくさんあると思うので、戦後80年を迎えようとする今、十分に戦争に向き合ってこられたのか、その教訓を次代に残していけているのかというところは、おのずと問われてくると思います。あとは、一回壊れてしまった関係は、これだけ長い年月残るものだということも今回の番組の中で描かれているので、そのあたりも見て感じていただければと思います。番組を見て感じられるところは視聴者それぞれだと思うので、ぜひご覧いただいて、感想を聞かせていただけるとありがたいです。

夜久 ぜひこれからも質の高い番組を発信していただきたいと思います。SNSなどネットメディアは今後益々世の中に影響を与えていくと認識していますけれども、在京キー局だけでなくローカル局も含めてテレビメディアにも大いに期待しています。大きな影響力と責任のある、大事な仕事をしているという思い、誇りを持って頑張ってください。

湯本 ありがとうございます。

20241125日 民放連会議室にて)


信越放送 情報センター報道部
湯本和寛(ゆもと・かずひろ)
1978年長野県生まれ。2004年信越放送入社。代表作にSBCスペシャル『まぼろしのひかり~原発と故郷の山~』、同『消えた 村のしんぶん~滋野村青年団と特高警察~』など。

三井住友銀行 上席顧問
夜久敏和(やく・としかず)
1962年兵庫県生まれ。1984年三井住友銀行入行、執行役員、常務、専務等を経て、2019年代表取締役副頭取、2023年上席顧問。20239月からテレビ東京放送番組審議会委員、20244月から同審議会副委員長を務める。


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