【渡辺考の沖縄通信⑥】「チューバー」知事 大田昌秀の問いかけ

渡辺 考
【渡辺考の沖縄通信⑥】「チューバー」知事 大田昌秀の問いかけ

こんな人が、今の世の中にもっといてくれたら――

そう強く思う人物がいる。その生き方は、分断と差別、そして人間不信が渦巻く現代社会への一つの指針となるはずだ。

大田昌秀。元沖縄県知事である。

沖縄に「チューバー」という言葉がある。漢字で書けば「強者」。自らの信念を曲げずに貫く人を指す。厳しい沖縄戦を生き延びた大田は、戦後、学者となり、「二度と沖縄を戦場にしないために何が必要か」を問い続けた。そして知事に選ばれると、平和主義を掲げ、米軍基地問題で日米両国と真正面から向き合い、妥協せずに格闘した。まさに「チューバー」の体現者だった。

普天間問題の実相を問う

私が大田に初めて会ったのは、16年前の師走。彼が所長を務める那覇市内の「沖縄国際平和研究所」でのことだ。当時84歳。県知事を2期務め、国政に転じて参議院議員も経験。その職を退いてから、2年がたっていた。

笑顔を浮かべながらも、目に宿る力に圧倒された。初対面の時候の挨拶などなく、いきなり核心を突く言葉が放たれた。「なんで、沖縄に押しつけるんでしょうね。いったい、日本人て何なんでしょうか」。まるで長年の葛藤を経た思索が一言に凝縮されたような鋭さだった。

当時、沖縄は普天間基地の移設問題で揺れていた。民主党の鳩山由紀夫が「県外移設」を掲げて首相の座についたものの、実現できず迷走。県民の怒りは頂点に達していた。

そもそも普天間問題の発端は、大田県政の時代にさかのぼる。宜野湾市の中心にある飛行場は、危険で街づくりの妨げにもなっていた。米兵による少女暴行事件に端を発した抗議のうねりも受け、大田が日本政府に返還を求めた。橋本龍太郎首相は米側と交渉し、返還合意にこぎつけたのだが、移転先は「沖縄本島の東海岸沖」と結論づけられた。県外移設を念頭に置いていた大田は反対を表明、その後、事態は二転三転し、解決には至らなかった。鳩山政権の迷走は、その延長線上にあった。

私はこの問題の本質を大田に問い、同時に彼自身の戦争体験にも耳を傾けようとしていた。

大田が真っ先に連れていってくれたのは、南部・糸満市の摩文仁だった。そこにあったのが「沖縄師範健児之塔」。戦後、大田が仲間たちと協力して建立した、戦没した学徒「鉄血勤皇隊」の碑だ。隊員の多くは、14歳から17歳の学生たちで、学業半ばに、十分な訓練も受けずに戦場に立たされた「少年兵」だった。沖縄戦末期、大田が通っていた沖縄師範学校男子部から生徒386人、教員24人が鉄血勤皇隊に動員され、生徒226人、教員9人が命を落としていた。大田もこの隊の一員として死線をさまよったが、一命を取り留めた。

 「彼らが生きていれば、沖縄のリーダーになって戦後の沖縄を引っ張っていったのにといつも思います。沖縄にとっても大きな損失です」

知事として困難や決断が不可能なことがあると、ここに来るのだという。

「仲間たちと向き合うんです。全ての利得感情がなくなるんですよ。死んだ仲間たちを前にそんなもの浮かびやしませんよ」

戦没者と生者を隔てる境界は大田にとっては透明な被膜で、亡き友といつでも呼応しあっているように思えた。

戦争体験を通じて、大田は「軍隊が戦争中に民衆を守るというのは幻想にすぎない」「軍備によって、国民や国内の自由や民主主義を守ることはできない」ことなどに思い至ったという。そして戦後を「みずからの人間的願望にもとづく主体的な生き方を求めて」生まれ変わりたいと願った。この願望こそが、戦後の大田の原動力そのものに違いない。

知事となって向き合った最大の問題が、前述した米軍基地の問題だ。

普天間飛行場を見下ろす嘉数高台、辺野古の海にも大田と共に赴いた。発する一言一言が鋭く、重みを持っていた。

「絶対に起こらないというのであれば別ですが、基地があったら確実に事故や事件が起こるというのはわかりきっている。普天間(基地)を辺野古に移したとしても、その危険性をこっちの方に持ってくるだけなんです。だから問題は依然として残っちゃうわけですね」

外交官の岡本行夫、作家の目取真俊、そして元知事の稲嶺恵一との対談も行った。目取真以外は立場を異にする者たちだが、大田は彼らにも臆せず持論を堂々と突きつけていたのが強く印象に残った。

また私は、東京にも赴き、防衛事務次官だった秋山直紀、元防衛庁長官の久間章生、外交官の田中均――大田と対立した側にも直接会い、貴重な証言を収録した。

そして、大田と最も深い因縁をもつ元首相にも、私は話を聞くこととなる。

「やさしさ」を求めて

数合わせとしか思えない理念なき政党連立が報じられる日々。そんなやるせないニュースに触れながら、とある朝、本稿に向かいつつ、ある政治家の好好爺然とした顔を思い出していた。

村山富市。

会ったのは永田町にある社民党本部の一室だった。首相としての村山が、大田とどう向き合ったのかを問うためだった。戦争体験を共有し、平和主義という理念で深く通じ合った二人だったが、政治の現場では激しく対立した。発端は、30年前の9月に起きた米兵による少女暴行事件である。県民の不満が噴出し、宜野湾市の公園で開かれた「県民総決起大会」には85千人が集まった。そこで「地位協定の見直し」と「基地の整理縮小」などが要求された。大田自身も壇上に立ち「本来一番に守るべき幼い少女の尊厳を守ることができなかった」と謝罪したのは、脳裏に深く刻印されている光景だ。

大田は、この事件以来、米軍基地に対して毅然たる態度を取るようになる。この年は、沖縄の米軍用地の契約更新のタイミングだったが、大田は、米軍用地の強制使用手続きの署名を拒否したのだ。首相の村山は、大田相手に訴訟を提起し、沖縄県と日本政府との初めての裁判に発展した。

この年の11月、村山と大田は首相官邸で直接対面した。米軍基地の維持を図る村山と、署名拒否で抗った大田。緊張は深く、和解の糸口は見えなかった。

村山は、インタビューでこう振り返った。

「大田さんへの対処には、正直、苦慮しました」。そしてアンビバレントとも思える言葉を続けた。

「でも、彼の平和を願う心には深く共感していましたね」

その声は柔らかく、その双眼はどこか遠くを見つめていた。トレードマークの長い眉毛が印象的で、こちらを包み込むような柔らかさと同時に、一国の舵取りを担った者の矜持が老いた身体の奥に宿っていた。眉を寄せる瞬間に、頑固さの影も見えた。

横道に逸れるようだが、村山についても簡単に触れてみよう。

1924年、大分市で漁師の六男として生まれ、戦時中は軍需工場で働き、学ぶ機会を奪われた。敗戦の翌年、明大専門部を卒業。社会党に入党し、市議、県議を経て、沖縄が本土に復帰した1972年に衆議院議員に初当選した。そして1994年。自民党、新党さきがけ、社会党の連立によって、首相に就任する。理念を異にする政党の連立は、いまの政治状況とも重なる。同じようなことを繰り返す永田町の力学には、ため息が出てしまう。

それでも村山が秀逸だったのは、平和への取り組みだった。モットーは「人にやさしい政治」。従軍慰安婦問題への基金創設、被爆者援護法の制定、水俣病の政治解決――戦後の傷に向き合う政策に力を注いだ。

戦後50年の節目、村山は首相談話で、日本は「国策を誤り」、アジア諸国を「侵略」したと明言、「痛切な反省と心からのお詫びの気持ち」を表した。初めて日本国の明確な戦争責任を口にした首相だった。

この夏、談話の文言に苦慮した石破茂前首相の姿が、思い浮かぶ。それでも石破は、周囲に足を引っ張られながらも、その後、所感という形で、日本が戦争に向かった過程を精緻に説明し、軍への統制を失った政府や議会の不備に言及したのは、先人の平和への思いをどうにかして引き継ごうとしたからだと思う。その意味でも村山の談話の果たした役割は大きい。

前述したように、混沌とした政治の風景のなかで、私は大田についての本稿を(したた)めながら、村山の面影を思い出したのだった。数奇にも、彼を想起したその日の午後一番に、訃報が届いた。享年百一。

また一人、戦争を知る人がこの世を去った。今あらためて、大田とは別のやり方ではあるが、同様に平和を希求していた稀有な政治家だったと思う。

村山のインタビューも含め、大田の半生を普天間問題を中心に辿ったドキュメンタリーは、90分のETV特集『本土に問う 普天間問題の実相』として2010年初頭にオンエアされた。

忘却の時代に

戦後80年。少女暴行事件に端を発した県民総決起から30年。日本は今、忘却と歴史修正、右傾化の波に覆われつつある。大田昌秀も生誕百年を迎えたが、同時代を生きた論客の多くはすでに世を去り、彼自身も「歴史上の人物」として扱われはじめている。

だからこそ、私はいま、大田を見つめ直す意味を強く感じている。現実的な利害にばかり目を奪われがちな社会のなかで、理想の社会像を描き、そこにゴールを置いて生きた大田の姿勢は、あまりにも貴い。目先の利益ではなく、その先にあるものを見据え、戦い抜く強靱な精神――それこそが、今の時代に最も欠けているものではないか。

今夏、大田についての本格的な評伝が出版された。『大田昌秀 沖縄の苦悩を体現した学者政治家』(中公新書)。沖縄国際大学教授の野添文彬によるものだ。野添は、若い世代に沖縄の痛みを自分ごととして知ってもらいたいという気持ちもこめたという。

「今の時代と地続きでつながっている沖縄の歴史を、自分の学生を含め若い人々にどう伝えたらいいのか――それをずっと考えてきました。そのひとつの有効な方法として、個々の人生を通して語るというやり方があると思った。大田さんのような人物を、沖縄の歴史を"そこを生き抜いてきたエネルギー"として、ポジティブな面から捉え直すことで、人々に共感を呼び起こす。そういう伝え方があってもいいなと考えています」

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野添文彬著『大田昌秀―沖縄の苦悶を体現した学者政治家』(中公新書)>

NHK沖縄局で一緒だった30歳の元同僚が、こう教えてくれた。沖縄に来るまで大田のことを考えたこともなかったと前置きし、「あたたかさと鋭さが共存するまなざしを持つ人間こそ抑圧に打ち勝つことができ、歴史に深い響きをもたらすのかもしれませんね。最近特に中身もビジョンもない政治家が目立ちますが、大田さんのようなまなざしでまつりごとをやってくれる人間がかつて確かにいた、という事実は、現代を生きるわれわれにとって救いですよね」

大田が琉球大学で教鞭をとっていた時の教え子で元沖縄タイムス記者の玉城眞幸は、最晩年の大田の様子をこう語る。「大田さんは、キング牧師、ネルソン・マンデラ、そしてマハトマ・ガンジーの名をよく挙げていました。差別や抑圧と闘い続けた人々。その姿を、最後まで見つめていたんです」

――あなたの行動がほとんど無意味であったとしても、それでもあなたはしなくてはならない。それは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。

期せずして、本稿を脱稿した今日は、県民総決起大会からちょうど30年目の10月21日だ。マハトマ・ガンジーの言葉を嚙み締めながら、さまざまな逆風に立ち向かっていた大田の横顔を思う。

あの人を射るような、透き通った眼差しは、無責任なポピュリズム、偏狭なナショナリズムが渦巻くいまの時代をどう見るのだろうか――

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