タレントや音楽グループのメンバーを選定するオーディション・コンテンツが活況を呈する様子は近年、ほとんど見慣れた風景になっている。特に、多くの番組の発信場所が、かつてのテレビメディアから、動画共有サイト・動画配信サービスに移り変わったことで、類似企画の量的な増加も呼び込んだ。もちろんのこと、テレビメディアとネットメディアとは完全に峻別できる二者ではなく、また相補的に利用し合う関係でもある。その必然として、ネットメディアを足場にしたオーディション・コンテンツからデビューした演者たちが、テレビメディアにおいて活躍する例も少なくない。
2025年に関していえば、ともに2024年後半からインターネット配信で番組が始まり、今年序盤にオーディション企画としては完結した『timelesz project』『No No Girls』から生まれた、timeleszとHANAの2グループが、それぞれに異なる経緯を持ちつつ、強い存在感を見せた。2010年代から大きな知名度や支持を得ていたグループ・SexyZoneのリスタートとなるtimeleszの新たなメンバーたちは、すでにさまざまなテレビメディアでも馴染み深い存在となりつつある。一方、今春以来多くの音楽特番にも出演してきたHANAが、今年大晦日の『第76回NHK紅白歌合戦』にプロデューサーのちゃんみなとともに初出場することは、デビュー初年度の躍進を象徴する出来事といえる。
「タイプロ」と「ノノガ」の新しさ
timelesz projectのオーディション経過は、Netflixで『timelesz project -AUDITION-』の番組名で配信された(2024年9月~2025年2月、略称「タイプロ」)。同番組では審査に臨む参加者の模様とともに、自らと同じグループに入る同志を選ぶ立場でもある既存メンバーの菊池風磨、佐藤勝利、松島聡の振る舞いやインタビューにも時間が割かれていた。オーディションの推移を伝える番組であると同時に、再起動を余儀なくされた人気スターたちの仲間探しドキュメンタリーの側面も色濃かったといえるだろう。その立場ゆえの、候補者たちに対する3人のコミュニケーションのあり方も大きく注目されて話題を呼んだ。
他方、YouTubeおよびHuluをプラットフォームとして配信された『No No Girls』(2024年10月~2025年1月、通称「ノノガ」)は、オーディション・コンテンツないしは演者の選考というプロセス全般を、あらためて問い直すような志向を持っていた。同プロジェクト開催にあたって掲げられた「身長、体重、年齢はいりません。ただ、あなたの声と人生を見せてください。」という文言にもうかがえるように、「No No Girls」は、表に立つ職業をめざす人々にしばしば押しつけられる容姿や年齢、体型、一定方向の規範などのステレオタイプによって否定されてきた、あるいは自身を否定してきた人たちをすくい上げようとする企画でもあった。
また、『No No Girls』に特徴的なのは、企画の性質上不可避である「選別」のプロセスにあたって、合格/不合格という結果のみが目的化しないような方向づけであった。プロデューサーを務めるちゃんみなは審査結果の発表にあたり、合否にかかわらず候補者たちに寄り添いサポートする言葉を真摯に紡ぎ、そしてその様子は番組の中で長い時間をとって配信された。
そこには、ただでさえ疲弊しやすい環境にあるオーディション候補者たちへのケアを優位に置く思想が見て取れる。それはまた、ともすれば過酷さや追い詰められる瞬間こそがコンテンツとして採用され、わかりやすい呼び物ともなってきたようなオーディション/リアリティショー的な企画に、問いを投じるものでもあっただろう。そうしたメッセージを強く放つ企画から生まれたHANAがこの一年に見せた順調な躍進は、『No No Girls』の提案する姿勢が多くの人々に支持されたことを示すものだ。
もちろん、ある表現を選ぶことはそれ以外の表現を排することでもある。オーディションである限り、ある特定の方向にのっとって誰かを選別し、その方向性に則した表現を作ろうとする。一つの企画がすべての志望者を包摂することは不可能である以上、『No No Girls』やちゃんみなの真摯な振る舞いも、アンビバレントさを含んだものにならざるを得ない。それでもなお、同企画が現代に発信したメッセージが重要なのは、オーディションに限らずリアリティショー的なコンテンツがはらむ問題性が、あらためて問われ整理されるべき時を迎えているためだ。
リアリティショー的な展開がはらむもの
昨今のオーディション番組隆盛を受けて、今年9月に刊行されたのが太田省一・塚田修一・辻泉編著『アイドル・オーディション研究 オーディションを知れば日本社会がわかる』(青弓社)である。本書にはテレビメディアとともにスタートした日本のアイドル・オーディションの歴史や、K-POPを中心とした今日的なサバイバル・オーディションの様相、英国や米国のタレントショーについてなど、オーディション番組を今日あらためて整理・検討し、かえりみるための議論が多角的に収録されている。
同書の中で、執筆者の一人である上岡磨奈が警鐘を鳴らすのは、参加者がオーディション番組というフォーマットの中に落とし込まれることで、当人の人生がまさにただのコンテンツの一部として受容され、結果として参加者に対するネガティブな声がSNS上などでエスカレートしていくような事態についてである。今日、番組にはそもそも編集・演出が施されているものだという俯瞰的な前提も人々に共有されつつある一方で、不用意な振る舞いをした(ように番組内で映し出された)人物に対して、「正義感による誹謗中傷」はいまだ際限なく投じられやすい。
上岡が指摘するように、そこで往々にして「コンテンツ化」されるのは、まだ芸能者ではない(芸能者になるかどうかもわからない)一般人の参加者である。「オーディションの合否以前に悪評と氏名などがデジタルタトゥーとして流布することで、それこそ参加者の人生に大きな影響を与えてしまう可能性がある。たたいた人は〈選ぶ〉立場としての正義感さえ掲げるだろうが、オーディション中に不用意な発言や振る舞いをしてしまったことがどれだけの悪行だといえるのだろうか」(『アイドル・オーディション研究』、245ページ)。上岡もまた、オーディション番組が誘引する他者からのネガティブなジャッジに対峙する企画として『No No Girls』を例示しつつ、オーディションという催しがもたらす環境の性質を、視聴者・番組制作者双方に意識するよう促す。
同型のグループ・オーディション企画に限らず、さまざまなリアリティショーにおいて、参加者の失態(にみえるもの)は耳目を呼びやすく、番組の山場を作りやすい要素としてながらく機能してきた。それはしばしば、審査的な立場の者が叱責する場面を切り取ったシーンとセットになり、視聴する人々に〈選ぶ〉立場の視線を擬似的に提供することにもなった。SNS上での反響を計算に入れることがほとんど標準となった今日のメディア環境では、その受け手の視線は否応なく可視化される。
すべての人が安心して身を委ねられる場に
前述の『アイドル・オーディション研究』編著者の一人である太田省一は、今年10月に上梓した『とんねるずvs村西とおる 80年代のメディア的欲望』(双葉社)でも、リアリティショー的な番組の性質を読み解いている。SNSが前提となった今日の環境では、「欲望を表出する自由と投稿する自由は一対のものであり、投稿することも欲望充足のプロセスの一環になっている」(『とんねるずvs村西とおる』、230ページ)と太田は指摘する。リアリティショー的なコンテンツを享受することと、SNSを通じてパブリックに言葉を発することとがごく自然につながりやすくなった環境に誰もが身を置いていることは、あらためて留意されるべきことだろう。
また、忘れてはならないのは、オーディションとは本来、あくまでプロジェクトの端緒にほかならず、選ばれたメンバーの活動が始まって以降にこそ、個々人に対する継続的なケアやビジョンが必要になるという点だ。明確なゴールを持つオーディション・コンテンツは定期的な山場を設定しやすく訴求力を得やすいだけに、次々に立ち上がる類似企画にもそのつど注目が集まる。願わくは、オーディションという一つの祭りが終わった先に続く演者たちの道のりに、持続的なサポートが敷かれていてほしい。参加者にとって常に可能性の場であり、視聴者にとっては新たな表現者に出会う機会であるからこそ、すべての人にとって少しでも安心して身を預けられる場所が作られることを望む。

