日本の古典芸能・歌舞伎を題材にした映画『国宝』(監督=李相日)が6月6日の公開以来、大きな反響を呼び続けている。本作は、任侠の家に生まれ、親を亡くしたのち上方歌舞伎の大名跡の一門に引き取られてやがて稀代の女形になってゆく喜久雄(吉沢亮)を中心に据え、生まれながらに将来を約束された一門の御曹司・俊介(横浜流星)との関係を軸にしながら、半世紀におよぶ歩みを描いた作品だ。
原作は吉田修一による同名小説(朝日新聞出版)だが、上下巻にわたる小説版に描き込まれたさまざまな登場人物たちの紆余曲折や時代感の移り変わりなどは、劇場映画の尺に収めるため刈り込まれ、人物配置もシンプルになっている。そのぶん、歌舞伎の世界の「血」と「芸」をめぐるテーマが強く前面にあらわれ、喜久雄の一代記としての趣をより強くする。
もっとも、そのうえでなお奥寺佐渡子による脚本は喜久雄や俊介、俊介の父で喜久雄を歌舞伎の世界に引き入れる花井半二郎(渡辺謙)、半二郎の妻・幸子(寺島しのぶ)、喜久雄の幼馴染・春江(高畑充希)ら、作中に生きる人々の切実な心理の交錯を鮮烈に描き出している。また、孤高の女形・小野川万菊の印象的な言葉を、原作とはシチュエーションをややずらしながら配置してみせるいくつかのシーンは、万菊を演じる田中泯が表現した異様な凄味も相まって、喜久雄がめざす道の底知れなさを象徴的に暗示する。
固有のアプローチで歌舞伎への憧憬を喚起
ソフィアン・エル・ファニ(チュニジア出身で国際的に活躍する撮影監督)による撮影は、舞台の上に立つ芸能者たちの生理や心情に迫るように、身体のパーツを生々しく捉え、時に彼らと同じ舞台上から芝居を見つめ、時に舞台の後方から役者の背中や客席にまなざしを向けていく。それら、実際の歌舞伎上演を収めた映像では普段出くわすことのない質感のカットは、演目そのものを伝える以上に、喜久雄や俊介らの生をドラマティックに物語ろうとする。さらに、時代の推移を示すディテールとともに芝居小屋その他を具現化した種田陽平の美術も、実在感のみにとどまらない空間としての豊潤さを存分に表現している。
映画『国宝』がもつ魅力のありかはいくつもの視野、いくつもの角度から探ることができるだろう。だからこそ、公開以降、歌舞伎に携わる当事者や歌舞伎を愛好する観客はもちろん、歌舞伎にふれる習慣のない多数の人々の口からもさまざまな語りが紡がれている。『国宝』という作品は、観る者それぞれの立場から、歌舞伎への愛着や幻想、割り切れなさや屈託までを照らし出す存在になっている。とりわけ、日常的に歌舞伎を観る機会のない観客層に、この作品特有の仕方で歌舞伎への憧憬を喚起せしめたことは、大きなインパクトをもたらした。
映画冒頭に、歌舞伎や女形についての簡潔な説明が綴られていたことが示すように、そもそも歌舞伎は今日、この国に住む多くの人にとって「遠い」ものでもある。この数十年来、雑誌メディアが歌舞伎の特集を組む際には、読者が歌舞伎を知らないことを前提にした「歌舞伎入門」的なアプローチが頻繁に採用され、そこでは歌舞伎について「もともとは庶民の芸能」「今でいうアイドルのようなもの」といった常套句が繰り返されてきた。身近さをアピールするレトリックが繰り返されるのは、現代の人々にとって「遠い」ものという認識が前提されているからにほかならない。その「遠さ」ゆえに、東銀座にある歌舞伎座、ないしは歌舞伎を観劇すること自体が長らく観光の定番として位置づけられ、また特に1980年代以降は情報誌などによって、他者との差異化をはかるようなハイセンスな趣味として表象されることもあった。また他方で、日本芸術文化振興会は長らく、自らが運営する国立劇場(現在は閉場中)などを用いて、学生や社会人、あるいは海外からの来訪者向けに「歌舞伎鑑賞教室」という枠組みによる公演を催し、「見方を学ぶ」機会を提供してきた。
『国宝』はしかし、「入門」的なアプローチでも「ハイセンスな趣味」としてでもなく、あるいはまた実在の歌舞伎役者や上演にフォーカスするのでもなく、フィクショナルな設定をキーとしたドラマを見せつけることで、人々に歌舞伎への憧憬を呼び起こした。吉沢亮、横浜流星という二人の俳優は、一方では長期の研鑽を重ねながら歌舞伎に迫ろうとし、一方では「血」と「芸」を軸にした終生の友/好敵手を描く普遍的なテーマをもって広く世に訴求してみせる。劇中で上演される演目もまた、知識として紹介されるために登場するのではない。『二人藤娘』『二人道成寺』『鷺娘』、また『曽根崎心中』といった演目群はそれぞれに、登場人物の足場や関係性をそのつど照らし、暗喩となり、物語ってみせることにこそ、最大の効果を発揮している。
「家」を語ることと不可分な宿命
ところで、放送メディアについてかえりみても、歌舞伎を扱う際に「血」、言い換えれば「家族」へとフォーカスしていくことは、ごく自然に採用されてきたアプローチであった。『国宝』の原作小説では、歌舞伎役者を取材するテレビドキュメンタリーのクルーも登場し、襲名披露という「血」や「芸」の継承を強く意識させるイベントに向けて長期密着する様子にもふれられる。物語上のそうしたなにげないパーツはまた、現実の放送メディアと歌舞伎の関わりを容易に思い起こさせる。
フジテレビが数十年にわたって続けている中村屋一門の長期密着ドキュメンタリーは、まさに番組名に「中村屋ファミリー」の文言が入っていたように、一門や周辺の人々を含めた「家族」と常に不可分であったし、それは日本テレビの『市川海老蔵に、ござりまする』から『成田屋に、ござりまする』に至る成田屋ドキュメンタリーもまた然りである。「家族」への収斂は、歌舞伎に生きる人々を追おうとすれば必然のテーマでもあり、また視聴者がもつ歌舞伎の知識の有無にかかわらず、興味を持続させやすい普遍的な物語を提供するすべでもあった。歌舞伎の家を追い続けるそれらドキュメンタリーは、楽屋裏の喧騒も晴れがましい場も、歌舞伎の家に生きることがもたらす理不尽さと裏表の慣習も、時には生命にかかわる深刻な事態に直面する当事者たちの姿さえもカメラを差し向ける対象とし、受け手であるわれわれはそれをエンターテインメントの一部として享受してきた。
『国宝』は優れたフィクションを通じてこのテーマを扱いつつ、他方でまた、出演俳優のパーソナリティの背後にも「血」と「芸」を忍ばせている。歌舞伎役者の妻であり母である幸子を演じた寺島しのぶは、いうまでもなく歌舞伎役者の家に生まれ、歌舞伎役者の親として生きてもいる。その幸子が、歌舞伎の代役や名跡をめぐって家族の立場から吐露する言葉は、幾重にも重い。また、本作に関して寺島がメディアの前で語る折には、当事者として実際の歌舞伎の世界とフィクションとの差異にふれながら自身の考えを伝えているが、こうした寺島の存在が『国宝』という映画の立ち位置に、ひとつの説得力を付与していることは間違いない。
さらに視点を移せば、歌舞伎興行を手がける会社の社員・竹野の役を務めた三浦貴大は、日本の芸能メディアにおいて比類なき存在感を放ったアイドルと、長らく偉大なキャリアを蓄積してきた俳優とを親に持つ芸能者でもある。その三浦演じる竹野が、初対面の喜久雄に対して斜に構えるように「歌舞伎なんてただの世襲」と言い放ち、最後に悔しい思いをして終わるのは「血」を持たない喜久雄であると指摘するとき、フィクションと演者の人格とのはざまには、単純ならざる構図が立ち上がる。
演じている役柄と、それを演じる役者のパーソナリティや出自とが重ね合わされるのは、もとより歌舞伎という芸能の特徴でもある。歌舞伎とは、何よりも演者の魅力を第一にして成り立ってきた演劇であるが、歌舞伎役者が舞台上で演じているとき、そこでは上演中の演目に登場する役名と、家の歴史や芸を背負った名跡をもつ歌舞伎役者自身とが二重写しにまなざしを向けられ、加えていえばその背後には本名として現代を生きる一個人としての位相が連なる。戯曲や演出などの要素よりもまず、演者という「人間」に光が当たる芸能だからこそ、このような重層性は常についてまわる。
芸と演者のパーソナリティが二重写しに
映画『国宝』についていえば、そこにはさらに入り組んだ層が加えられる。6月20日放送の『スイッチインタビュー』(NHK Eテレ)で、同映画に出演し歌舞伎指導も担当した中村鴈治郎が対談相手の吉沢亮に向けて言及したように、吉沢は『国宝』において「任侠の家に生まれた立花喜久雄(本名)が、花井東一郎(歌舞伎役者としての名跡)の名を背負い、『曽根崎心中』のお初(演目中の役名)を担う」というフィクションを、現実に生きる一人の俳優として演じてみせる、という構図を体現している。さらにいえば、それを受容するわれわれ観客は、歌舞伎役者ではない吉沢や横浜流星が、長期間をかけて作品に堪えうる水準にまで歌舞伎演目の鍛錬を重ねたというバックグラウンドの痕跡を、ありありと感じながら虚構のドラマとしての作品を観る。そこではやはり、映像作品中の役柄とそれを演じる俳優のパーソナリティとが、どこかで二重写しになっている。
芸能人のパーソナリティがかつてなく消費される今日にあって、芸能としての「技術」と「人格」とが対比項のように分けられて論じられることは非常に多くなった。また、演者もファンも同一のSNSプラットフォーム上にアカウントをもつことが当たり前になったメディア環境においては、芸能者のパーソナルな領域がいかに開示され制御されるのか、当事者個人の人格をいかに守るのかについて、送り手・受け手双方が意識的になりえている時代でもある。
他方で、家の芸を背負いながら研鑽を積むことと、舞台を降りた家族関係までが覗き見られ、さまざまに語られることとがそもそも綯(な)い交ぜになった歌舞伎という芸能を捉えるとき、あるいは歌舞伎のそうした側面を強く照らし出す映画『国宝』の訴求力を目の当たりにするとき、芸能に関して「技術」と「人格」とを截然と分けうるかのような視点を前提にした議論は、きわめて素朴であることを思い知る。芸とパーソナリティとの間にある豊かさや複雑さ、ままならなさをあらためて認識させてくれる機会は、芸能が抱えるさまざまな側面のいずれを捉え、議論するうえでも、不可欠なものであるはずだ。