【メディア時評】被写体との信頼関係を築くには 記者は「取材しない」勇気を それを支える経営者の度量

小松 理虔
【メディア時評】被写体との信頼関係を築くには 記者は「取材しない」勇気を それを支える経営者の度量

11回目の「3・11」が終わった。新聞やテレビの震災報道を見ていて感じたことがある。それは「次世代」の登場が目立ったことだ。昨年までは、まさに「直接的に被災したその人」を取り上げたものが多かったが、今年は、被災当時は子どもだった世代や、震災後に生まれた世代にも光が当たっていた印象がある。10年という節目を超えた11年目。メディアが「次の時代」を見据え始めた、ということかもしれない。

若い世代の登場は、直接的な当事者を長期にわたって取材してきた「副産物」であるようにも感じる。ある家族に長期間にわたって密着できていなければ子どもたちにもアクセスできないだろうし、家庭を持ったり子どもが生まれたりという変化を知ることもできないはずだ。記者たちはそれだけ長く家族に密着してきたことになる。

長期密着した映像には、被写体の変化のプロセスが記録される。語れなかったものが語れるようになったり、被災当時は子どもだった人が大人になったり。またあるいは、何かに反対していた人がそれを受け入れるに至ったり、避難生活を送っていた人が帰還を選んだりする。まさにその「変化」にこそ伝えるべきニュースがあるように感じるのだ。そして、その「プロセスを丸ごと記録できること」は、そのまま「テレビの強み」として再評価できると思う。

変化のプロセスを伝えることの重要性は、なにも「被災を語ること」だけに当てはまるわけではない。変化のプロセスを「学びのプロセス」として開示すれば、医学的・科学的な情報を伝えるときなどにも助けになるだろう。私たちは科学者と同じように理解するわけではなく、「わからない→学ぶ→わかるようになる」という変化のプロセスを踏んでいく。だから、そのプロセスを紹介することは、視聴者の理解を助ける補助線になり得る。

筆者は2013年の秋から、福島第一原発の沖で魚を釣り、放射線を測定してその結果をブログで公表するという活動を行ってきた。最初は魚の汚染についてほとんどよくわからない状態だったが、私たちは専門家ではないから、上から目線で「このように理解すべき」というスタンスを取らずに済む。むしろ「初めは不安ですよね」と寄り添うこともできるし、素人と同じ目線で、自分たちの理解のプロセスをそのまま伝えることができた。科学的な結論だけではなく理解のプロセスも併せて伝えるほうが、結果として理解につながるのではないか。

結論ではなくプロセスを伝える。この手法には当然時間がかかる。取材だけでなく膨大な映像を編集するのも大変な手間だ。「長回し」を嫌う人もいるだろう。だがぼくは、それでも長期取材のポジティブな効果を考えたい。鍵は「共に過ごした時間」がつくる被写体との信頼関係だ。

筆者は、いわき市内で「いごく」という高齢者福祉のメディアに関わっている。地域の元気な高齢者を取材したり、魅力的な福祉の取り組みを取材するというものだが、取材のやり方に特徴がある。「取材しない」という手法だ。取材に結論を持ち込まない。ただ、地域の集会所に身を置き、地域の人たちと腹を抱えて笑い合ったり、美味い料理に舌鼓を打ったり、目の前の状況を面白がるだけ。だから取材とは言えないが、面白い状況にだけはアンテナを張っていて、カメラやレコーダーは回しておく。だから「取材していない」とも言えない。いうなれば「半取材」のような手法を採ってきたわけだ。

この「半取材」は報道記者時代とはまったく違う取材手法だ。記者時代は、あくまで事前に取材テーマを決め、そのテーマに合致する人を探すところから始めた。彼ら当事者に然るべきコメントをもらえればそれでよかったのだ。だが今は思う。あらかじめ役割やテーマを決め、その役割に当てはめるような取材は長続きしないし、信頼関係を築くこともできないと。当事者とされる人たちと、いい時間を過ごした結果として、いい映像も残り、変化のプロセスも記録される。「ただ、そこにいる」、取材のようで取材ではない、記者の皆さんにはそんな時間を過ごす勇気を、経営者にはそんな記者を支える度量を持ってもらいたい。

こうした長期密着が良質なドキュメンタリーになる例も実際にある。最近で言えば、テレビ岩手「山懐に抱かれて」や山口放送「ふたりの桃源郷」、また、NHK「イナサ~風寄せる大地 16年の記録」などだ。取材に慣れると、どうしても誰かを取材の素材として見てしまうものだが、11年経ってようやく語れるようになったという人がいる。それだけの出来事を取材するのだ。1時間や2時間で結論を出そうとする手法に、1年に一度くらい、疑いの目を向けてみてもいいのではないだろうか。

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