子どもはなぜお化けを怖がるのだろうか。衝撃的な出来事に関する報道を子どもがどう視聴しているか考えるために、お化けと子どもの話から始めたい。
大人からみるとありえないこと、荒唐無稽と思ってしまうことを子どもは「現実」の出来事だと思い込む。特に7歳くらいまでの子どもは、目にしていること、聞いたことは全て「現実」であり、実際に身の回りで起こっていること、存在していることだと思い込むことが、心理学の知見で知られている。
怖いシーンになると目を覆って悲鳴をあげながら「ほんとにあった怖い話」を見るのも、テケテケや口裂け女の話を聞いて夜眠れなくなってしまうのも、そしてサンタクロースを信じてプレゼントを楽しみにするのも、目にしたことは全て現実に起こっていることだと思う子どもの特性からくることである。子どもが現実と非現実の二つの世界があることを知るようになるのは、10歳を境にした頃からである。
目にしたことは全てが現実だと思ってしまう7歳くらいまでの子どもたちは、テレビが伝える衝撃的な映像をどのように見ているのであろうか。私が以前、委員を務めていた放送倫理・番組向上機構(BPO)青少年委員会は、2002年3月15日に「『衝撃的な事件・事故報道の子どもへの配慮』についての提言」をまとめている。そこでは、「テレビの事件・事故報道は『真実』であるためのインパクトをもっているので、放送する側の意図を離れて、青少年に大きな心理的影響を与えることがある。このことについては、日頃子どもたちと接することの多い教育関係者やカウンセラーの間で指摘されながら、放送界では広く議論すべき共通の課題として必ずしも重視してこなかった」と指摘している。そして、刺戟的な映像の使用に関しては慎重に扱うこと、子どもは映像から大きなインパクトを受けやすい特性がある点に留意して、繰り返し効果のもたらす影響について慎重であるべきこと、などが指摘されている。
この提言は01年9月のアメリカの同時多発テロを契機として出されたものだが、この提言から20年経った今でも、この提言が持つ意味は決して色あせていない。
ウクライナ報道から何を感じるか
現在ウクライナで繰り広げられている、凄惨で残虐な破壊と殺戮に関する報道から、子どもたち、特に、目にしたこと、聞いたことは全て身の回りに起こる「現実」だと思う発達段階にいる子どもたちは何を感じているのだろうか。
言うまでもないことだが、民間放送の報道活動は、民主主義社会の健全な発展に資するきわめて大切なものであり、市民の知る権利に応えるために真実を伝えることは重要である。一方で、事実の報道であっても、陰惨な場面の細かい表現を避けることも、報道の責任として配慮すべきことである。
連日のウクライナに関する報道を見ていると、子どもが殺害されたことが報じられ、爆撃によって灰燼に帰した街や、無残に破壊された戦車、そして道路に点在する遺体などが映されることがある。「これから流れるVTRには遺体の映像が含まれています。辛いと感じる方はどうぞ無理なさらないでください」というアナウンスの後、遺体にモザイクをかけて映像が流されるといった、真実を伝える使命の遂行と、陰惨な場面を伝えること双方への配慮の中で懸命に報道の責任を果たそうとする放送局の姿勢に感銘を受ける。
一方で、目にしたこと全てを自分の身の回りで起こっている現実だととらえる発達段階の子どもと、メディアリテラシーが十分備わっていない子どもたちが、これらの報道をどのように受け止めるのか、ということはどのくらい考えられているだろうか。子どもたちが、連日の報道にどれほど恐怖心を抱いているのか、そうした子どもたちの存在を想像しながら、子どもたちの心に寄り添った報道はなされているであろうか。
5年生用の国語教科書『新しい国語』(東京書籍)には、佐藤二雄(つぎお)氏の 「テレビとの付き合い方」という文章が掲載されていた。そこには、「テレビの送り手が集め、選び、編集してとどける情報の数々は、実際の出来事にふくまれるぼうだいな量のほんの一部です。テレビの送り手は、さまざまな出来事の中から、だれにでも受け入れてもらえそうな、そのごく一部をカメラで切り取っていくだけです。何万倍もある報道されなかった事実の中には、報道された事実よりもっと重要な情報もたくさんあるでしょう」と続け、白い部分の中に、小さな黒い部分がある図で図解しながら説明している。
その具体例として、休み時間の校庭を取り上げている。いろいろなグループが、サッカーや鬼ごっこ、縄跳びなどで元気に遊んでいるとして、テレビカメラが切り取る部分はグループの一つひとつであり、一人ひとりの姿かもしれない。小さな黒い部分に例えることができるある1つのグループに目を奪われることによって、白い部分に例えることのできるグランド一杯に広がっている全体はむしろ見えなくなっているのではないか、と指摘している。そして、「わたしたちは、白い部分のあることをわすれないようにしながら、テレビと付き合う必要があるのではないでしょうか」と結んでいる。
民放連は『放送基準解説書』で、映像や音声の一部に一方の偏った事実が放送されると、それが全体像として視聴者に受け取られる懸念について指摘している。メディアが伝える内容を主体的に読み解く力が十分ではない子どもたちの場合、特にこの懸念は大きい。
子どもたちの存在を意識して
現在の学校教育では、多様性の社会の中で、多様な価値観に触れ、多様なものの見方ができるようになることを推し進めている。ウクライナとロシア、アメリカとロシア、ヨーロッパ西側諸国とロシア、ウクライナと西側諸国、それぞれの関係や立場について多様な思考ができる材料を報道番組は子どもたちに提供できているであろうか。
ロシアの戦車や軍用車両がウクライナ軍の攻撃で爆破される映像が、ウクライナ兵の歓喜の雄たけびとともに放送されたり、プーチン大統領の暗殺の可能性について触れたり、ロシアの将官7名が殺害されたりといったことを報道する際の、メディアリテラシーが十分ではない子どもたちの受け止め方にも注意しなければならないのではないか。
昔話は勧善懲悪を骨格としたものが多い。「猿蟹合戦」はその代表的なものであり、蟹に暴力を働いた猿がこらしめられて、「めでたしめでたし」で終わる。この話を、芥川龍之介は近代人の知性で読み解いて「猿蟹合戦」という短編に仕立てている。そこでは、仕返しとして猿を殺した蟹たちは警官に捕らえられて裁判を重ねた結果、蟹は死刑に、蜂、臼、卵らの共犯は無期懲役に処せられるという衝撃的な展開となっている。そして、「とにかく猿と戦ったが最後、蟹は必ず天下のために殺されることだけは事実である。語を天下の読者に寄す。君たちもたいてい蟹なんですよ」と結んでいる。猿は悪、蟹は善ときめつけ、蟹こそが正義と信じている多くの読者に向かって、正義とは何か、善とは何か、悪とは何か、と昔話の結末への批判的思考を促す内容であり、今のウクライナ情勢と照らし合わせても示唆的な小説である。
これだけの暴力的で残虐な出来事が連日続き、しかもこれからの世界について考えていくうえできわめて重要な出来事であり、そして子どもたちの知る権利にも応えなければいけない重要な出来事である以上、子どもたちを意識した子どもたち向けの報道も必要ではないだろうか。
難しいことを承知のうえで言うなら、子どものための報道の時間があることが望ましい。少なくとも、目にしたこと、耳にしたことは全て身の回りに起こる現実だと感じ、大人には想像できないほどの恐怖を感じている子どもたちの心に寄り添い、メディアリテラシーが十分ではない子どもたちの存在を意識した伝え方の工夫は必要ではないだろうか。