U30~新しい風⑤ ミヤギテレビ・伊藤有里さん「『また震災か』と思ったこと、あるのではないでしょうか」【テレビ70年企画】

伊藤 有里
U30~新しい風⑤ ミヤギテレビ・伊藤有里さん「『また震災か』と思ったこと、あるのではないでしょうか」【テレビ70年企画】

テレビ放送が日本で産声を上げたのは1953年。2月1日にNHK、8月28日に日本テレビ放送網が本放送を開始しました。それから70年、カラー化やデジタル化などを経て、民放連加盟のテレビ局は地上127社、衛星13社の発展を遂げました。そこで、民放onlineは「テレビ70年」をさまざまな視点からシリーズで考えます。

30歳以下の若手テレビ局員に「テレビのこれから」を考えてもらう企画を展開します。第5回に登場するのは、ミヤギテレビ報道制作局の伊藤有里さん。宮城県石巻市雄勝町出身で、小学校6年生の時に東日本大震災を経験。今年7月にはNNNドキュメント『それでも、海はある ~未来へつなぐ 大好きな景色~』(2023年7月16日放送)を制作しました。伊藤さんには、東日本大震災にまつわる報道について考えていただきました。※冒頭写真=2023年現在の雄勝町


私はミヤギテレビに入社して3年目、報道の部署で記者の仕事をしています。普段は警察担当として事件や事故の現場に行ってその様子を伝えたり、はたまた地域のお祭りや、早朝の市場、小学校の始業式......など宮城県のあらゆる出来事が取材対象です。その中でも、私たちが特に力を入れなければならないのが「東日本大震災」の報道です。

2011年3月11日に起きた東日本大震災。M9.0、最大震度7の巨大な地震は、巨大津波を引き起こし、全国で2万人以上の人が犠牲になりました。そのうち、約半数は宮城県での犠牲者です。

日本での観測史上最大となる大地震。世界でも類を見ない大災害を"経験"した局として「あの日、なにが起こったのか」を伝え続ける使命が、私たちにはあります。

「とにかく山に登れ」

私は、宮城県のリアス式海岸に面する、石巻市雄勝町(おがつちょう)で生まれ育ちました。人口4000人あまりの漁業が盛んな小さな港町。そこはかつて、明治三陸津波(1896年)やチリ地震津波(1960年)など、何度も津波に襲われたことのある土地でもあります。

小学6年生の卒業間近。下校途中、突然襲ってきた聞いたこともない地鳴りと、立っていられないほどの激しい揺れ。友達と抱き合いながら、ただただ揺れが収まるのを待つことしかできませんでした。

「大津波警報発令、予想の高さは6メートル」という声とともに鳴り響くサイレン。友人や地域の人と共に、学校の隣にあった高台に避難しました。学校では毎年津波訓練が行われていましたが、想定の津波の高さは当時3メートルだったので、「そんな津波、本当に来るのかな」と思いながら、どこかひとごとのように考えていました。

しばらくすると、高台の目の前にあった道路に、黒い水が溢れているのがわかりました。その瞬間、3メートル近くあった防潮堤を津波が越えたことがすぐにわかり、そこからは無我夢中で裏山に登りました。後ろからは、建物が壊れる音と、「とにかく山に登れ」という地域の人の叫び声だけが響いていました。

翌日、山から下りると、そこには変わり果てた町の姿だけがありました。何が起きているのか、目の前の光景が現実なのかも理解できず、涙すら出ませんでした。

"記憶"を作ることが役割

過去に何度も津波の被害を受けてきた雄勝町では、小さい頃から「地震がきたら津波がくる」と繰り返し、教えられていました。そのおかげもあってか、幸い、地域のほとんどの子どもが生き残り、私の家族も全員が無事でした。

3月が近づくと、繰り返される「東日本大震災」の報道。テレビを見て、「また震災か」と思ったこと、一度はあるのではないでしょうか。この世界で働くまで、私もそう思ったことがあります。

それは一見、ネガティブな感情に思えますが、私はそれでいいと思っています。「見たことがある」「聞いたことがある」「知っている」......その"記憶"を作っていくことがメディアの役割だと思うからです。

いつか次の災害が起きてしまった時、災害について何も知らなければ、次の災害が起きた時どんな行動をしたらいいのか、きっとわかりません。

でも、テレビで津波の映像を見たことがあれば、「大きな地震がきたあとは津波がくるかも」と考えることができるかもしれない。津波から避難した人の話をニュースで見ていれば「津波がくるから、すぐに高いところに逃げなきゃ」と思うことだってあるかもしれない。大切な人を亡くした人の姿をテレビで見ていたら、災害が起きた時にどう行動するか、事前に話し合うことだってできます。

「見たことがある」「聞いたことがある」からその光景を思い出せるし、「知っている」から行動に移すことができるのだと、私は思います。あの時、「地震がきたら津波がくる」という言葉を思い出して、私が津波から逃れられたように。

テレビを見ている人が、毎日、東日本大震災のことを考えることはきっとないと思います。でもいつか、自分の身に災害がふりかかってしまった時、それまでに見たテレビの記憶が、誰かの命を救ってくれたら......。そんなことを思いながら、東日本大震災のことを伝えています。

暮らす人の「想い」を

その一方で、伝え方には工夫が必要であるとも思います。2023年の7月、NNNドキュメント『それでも、海はある~未来へつなぐ 大好きな景色~』という番組を作りました。「東日本大震災」がもたらしたものは、地震や津波だけではありません。人の命だけでなく、町の景色や営まれてきた仕事、地域のコミュニティもまた、その犠牲となりました。

宮城県の沿岸部で津波の被害を受けた多くの地域は「災害危険区域」に指定され、今は住宅を建てることは禁止されています。そして、そこにできたのは巨大な防潮堤。かつて海と共に暮らしていた沿岸部の集落は、今は高台に登らないと海を見渡すことはできません。元々住んでいた住民は、新設された団地に移り住み、故郷を離れた人も多くいて、私の家族もまたその一員です。

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<NNNドキュメント『それでも、海はある~未来へつなぐ 大好きな景色~』>

番組では、雄勝町名振地区に暮らす漁師のご家族を中心に取材しています。雄勝町は震災後、県内でも特に大きい最大高さ9.7メートルの防潮堤が、およそ3.5㎞にわたって建設されました。その壁は、ネガティブな話題として、ローカルニュースで取り上げられてきました。

しかし、取材させていただいた大和恵一郎さん・千恵さんご夫婦は「町の景色が変わっても、新しくなった景色をまた好きになれればいい」、そして「景色が変わっても、そこには変わらず海はあるから」と私に教えてくれました。

震災からの時間がたつにつれ、景色が変わった故郷に対する葛藤が大きくなっていた。決して、"理想どおり"の復興とは言えなかったかもしれない。それでも、前を向いて明るく町の未来を語るご家族の姿に、何度も心が救われました。

テレビなどのメディアは、人口の減少率や、景観といった「情報」を元にニュースを発信します。でも、きっとそれだけではない、そこに暮らす人の「想い」もあるのです。その言葉や感情をすくい取る、「明るい震災モノ」を作りたいと思い、番組を制作していました。

東日本大震災の報道は、大切な人を亡くされた方の取材や、震災がもたらした問題点にフォーカスが多く当たります。もちろんそれは伝えなければいけない大切なことだし、続けていかなければなりません。その一方で、話を聞くことができていない小さな想いも、まだまだあると思うのです。これからも東日本大震災の報道を続けていくために、そんなまだ光の当たっていない想いをすくい取れるような報道を、続けていきたいです。

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<大和恵一郎さん・千恵さんご夫妻>

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