テレビ放送が日本で産声を上げたのは1953年。2月1日にNHK、8月28日に日本テレビ放送網が本放送を開始しました。それから70年、カラー化やデジタル化などを経て、民放連加盟のテレビ局は地上127社、衛星13社へと発展を遂げました。そこで、民放onlineは「テレビ70年」をさまざまな視点からシリーズで考えてきました。
本企画の中で、これまで日本の放送界をけん引し、発展させてこられた主要な方々の声を聞き、"オーラルヒストリー"として記録し後世に伝えていくとともに、これから放送界で活躍していく若い人たちに放送の持つ可能性を感じてもらう目的で、インタビューを掲載してきました(まとめページはこちら)。
本企画の締めくくりとして登場いただくのは、遠藤龍之介・民放連会長(フジテレビジョン副会長)です。
――昨年、テレビ放送開始から70年を迎えました
いろいろなトライアルを重ね、放送のデジタル化があり、TVerが設立されてと、いまがその集大成の時期にきている業界だと思います。今年5月にNHKのインターネット活用業務を必須業務化することを盛り込んだ改正放送法が成立しました。放送とネットを組み合わせて、視聴者にコンテンツを届ける仕組みが本格的に構築され始めている時期になっています。放送コンテンツの裾野が広がってきていると実感しています。
――テレビとの思い出をお聞かせください
記憶にあるテレビの映像は白黒ですね。家庭の中で大変な貴重品で、テレビを見るということは一つのイベントでした。私が小さいころは普及率も高くはなく、街頭テレビもあった記憶があります。子どものころは、米国のテレビシリーズやアニメーションを見ていました。米国のネットワークで放送されていた『サンセット77』『ハワイ5-0』『刑事コジャック』『弁護士ペリー・メイスン』などの人気番組を日本の放送局が購入し、日本語の字幕や音声をつけて放送していました。海外のコンテンツを見ることは映画ではありましたが、テレビで日常的に見る経験はあまりなかったので、興味深く見た覚えがあります。それからスポーツ中継もそうでした。現代のように多岐にわたっていたわけではなく、ボクシング、プロレス、野球に限られていましたけれども、お茶の間で見るスポーツ中継はインパクトがあって熱狂した思い出があります。子どものころは、映像コンテンツに接触するにはテレビで見るか、映画館に行くかでした。好きな番組の放送日時はすべて頭の中に入っていて、その時間には家に帰ります。学校や家庭のイベントで番組が見られなくなると、ものすごく残念だった思い出もあります。
中学生、高校生となるにつれ、一人で映画館に足を運ぶようになり、学生時代は映画に影響された部分もあって、映画会社に勤めたい気持ちがありました。しかし当時、映画業界は不振で新卒採用を控えていました。大学3年のときに映画会社に入りたいと思っていたので、それだけが理由ではないですが、2年ほど米国に留学しました。留学から戻っても同じ状況でしたので映画業界は諦め、フジテレビの入社試験を受けました。
――フジテレビに入社してからは編成の仕事を長く務めました
編成マンには二つの顔があります。CMの量や番組フォーマットの判断、系列局との調整などのほか、突発的なものでは報道のカットインをどうするか、特別番組を放送するかしないか――など社内調整の要であるプラクティカルなもの。もう一つは「企画」という番組を作る機能があります。私は企画の方で、かなりの数の番組を担当しました。最初に一人で担当したのは2時間ドラマと時代劇でしたね。番組の台本・企画段階から携わり、自社や番組制作会社の方への連絡やさまざまな確認を行います。いまもそうですが、当時の制作会社には影響力のあるプロデューサー、ディレクターがたくさんいらっしゃいました。その道30年、40年の方のもとに20 代の若い編成マンが行くといろいろな影響を受けます。制作会社の方々に育てていただいたありがたみは、いまも感じていますね。
「編成マンはスペシャリストでなくゼネラリストになれ」「タイムテーブルは局の顔なんだ」と上司がよく言っていました。毎朝届く視聴率表で、制作者は自分の作った番組の視聴率を見ます。一方で編成マンが最初に見るのはゴールデン・プライム・全日の数字です。プログラムを俯瞰的に見るという意味では若いときに非常によい体験をさせてもらったと思います。
企画担当から管理職まで編成を3回経験しました。企画担当は、自分が担当している番組について、制作会社と自局との関係をいかによくするかが仕事です。日々たくさんの企画が持ち込まれますが、タイムテーブルの総量は限られているため95%ぐらいはお断りをしなくてはいけない。企画に目を通し、場合によって原作も読むことは楽しかったですが、お断りするのはすごく大変でした。管理職になると、企画からは離れて会社としてのプログラムをどう運営していくかになります。改編や事件・事故が起きたときの判断・対応で社内調整を行うので、苦労の種類は違います。管理職になってからの方が苦労は多いような気がしますね。
――いま、テレビマンとして番組を制作するとしたら、どのような番組ですか
長く経験したドラマで企画を考えるかもしれません。放送収入が頭打ちの中で、新しい収入源はインターネットや海外に拡大していかなくてはいけません。海外展開ができて、ネットを中心とする若いユーザーに感情移入してもらえるような番組を考えると思います。当たっている作品は、表向きのパッケージは現代の風俗に合わせていますが、深掘りするといまの社会が抱えている問題や病巣、願望など普遍的なテーマが隠れています。これは一人の力ではできないので、優秀な脚本家さんや思いを一にする監督さんと知り合い、話をすることが重要だと思います。
自分の興味があって作りたいものが、世の中の人々の関心と一致するテレビマンもいます。それはすごく幸せですよね。しかしそういう人は稀で、多くのテレビマンは自分が作りたいものをそのまま作ると当たらない。これはドラマに限らずバラエティも情報番組でも同じで、多くの作り手は作りたいもののエッセンスを残しながら、どう時代と付き合っていくか悩んでいます。そこが腕の見せどころなんだと思います。
――「テレビ」という言葉について、人によって電波や受像機、コンテンツなど、さまざまなものをイメージしますが、どのようなものを思い浮かべますか
テレビは、さまざまな顔を持つカオス的な存在だと思います。日用品、宝飾品、食料品――などさまざまなものを売っている百貨店みたいなものですよね。単にたくさんの商品を売っているだけではなく、例えば報道とエンターテインメントでは、商品に対する考え方が違います。報道は視聴率が期待できなくても使命としてやらなくてはならない。伝送路自体が発展的になっている中で、そういうカオス性をどう残していくのか、考えていかなければいけない時代なんだと思います。
――民放連会長の仕事について、就任する前のイメージとギャップはありましたか
民放連会長就任前の2019年から放送計画委員会の委員長を務めました。当時の大久保好男会長とも何回かお話をしていたので、意外性はありませんでした。ただし、スピーチをする仕事が多いことには驚きました。
スピーチは、使う言葉や慣用句、表現の種類などが重要で、できるだけ人が使わないようなエピソード、表現を入れて話すように考えています。このように考えるようになったのは幼年時代の苦い経験が基になっています。小学2年生ぐらいのときに遠足で埼玉県の植物園に行ったときのことです。食卓で「昨日、植物園に行きました。お日さまがカンカン照って汗がダラダラ流れて、とても暑かったです」と宿題の感想文を書いていたら、後ろに人の影を感じました。父親(注:作家の遠藤周作氏)が怖い顔をしていて、「お前はさっきから何を書いているんだ。暑いのを書くのにお日さまがカンカンとか汗ダラダラとか、そんなことで伝わるはずがないだろう。日陰の涼しさを書け」と言われました。何を言っているのか当時はよくわからない。泣いてしまい、お父さん嫌いだとなりましたね(笑)。その記憶はいまだに残っています。
――民放連会長としていま一番悩んでいることは
放送収入以外の収益の裾野をどう広げていけるか。そのためにはたくさんの方に放送の価値を知っていただくことが必要です。放送の価値を最大限に高め、それを広く社会に伝播することです。もう一つは、放送局は最も多くの番組を作っている制作プロダクションでもあります。伝送路にかかわらずコンテンツをどう隆盛に持っていくかは重要です。いち視聴者としてコンテンツを楽しむと、配信でやっているから見よう、地上波だから見るのはやめよう、CS放送だから考えよう――などの考え方はないと思います。面白そうなプログラムだったら見て、面白くなさそうだったら見ない。昔は映像を楽しむ環境がテレビと映画ぐらいしかなかったので、面白くなかったとしても見てくださった。いまはあまりにも多くのコンテンツが氾濫しているので、本当に心にはまらないと見ていただけない。作り手としてはものすごく大変な時代になっていると思います。それでも当たる番組はあるわけですよね。その鉱脈を探り続けてほしい。それがテレビ隆盛の大きなステップだと思います。コンテンツ業界で使われる「Content is King」という言葉のとおり、伝送路もたしかに重要ですが、コンテンツにどれだけ魅力があるか。これからもっとレースが厳しくなっていくと思います。それを勝ち抜いていくのが放送であってほしいです。
<民放連会長2期目を迎えての記者会見(2024年6月14日)>
個人の嗜好が細分化され、時代のつかみ方がすごく難しくなっています。人間の心の中に共通項はあるはずなので、それをいかにして見つけるかが、これからの放送に求められていることなのではないでしょうか。それをつかみとることが、制作者、テレビ・ラジオメディアそのものにとっても重要です。放送の概念が、単なるテレビやラジオというハードを通じたプログラムだけではなく、通信にも出ていくのではないかと言われています。放送の概念が拡大すると、どうやって魅力的なコンテンツを作れるかの勝負になる。制作者は大変ですが、必ず成功する道は残されているので、それに向かっていただきたいと思います。
――この先もテレビが80年、90年、100年と歴史をつないでいくために、放送局の管理職、主に40代以上の方には、どういうことが求められると考えますか
人間は経験を積んで年を重ねると、自分が若かったときの価値観が一番よいと思い、正解は一つで他のものは間違っているという考えになりがちです。それはよくないと年を取って痛切に感じました。若い人の価値観に迎合する必要はないですが、よいこととは何か、常に考えることが必要だと思います。
また、最初から失敗しない人はいないので、若い人が成熟していくために、「失敗をする権利を与えること」は必要です。私の典型的な失敗は、当たると思っていた番組が放送してみたら当たらなかったことですね。その経験を重ね、なぜ失敗したのか考えました。すごく余裕があった昔の放送業界は失敗する権利をたくさん与えることができていました。厳しくなってくると「失敗するなよ」と言いがちですが、ここは歯を食いしばって若い人に失敗する権利を与える。そうしないと次代の作り手が育っていかない。失敗から何を学んでいくか、それを上の人は見てほしいと思います。
――20、30代の若手社員に向けてのアドバイスやメッセージもお願いします
それぞれの世代の価値観でよいところもあるので、年が離れた人と話をするのを避けないでほしい。若者が会話を避けるには理由があり、おそらく6割ぐらいは私たち年長者が作っていると思います。タレントの高田純次さんは、「若い人と話をするときに気をつけていることは3つだけあります。以下の話をしないようにしています。自慢話、昔話、説教」とおっしゃっていました。素晴らしいと思います。若い人が年長者とお酒を飲んだりご飯を食べたりするのを嫌うのは、この3つをされるからですよね。聞かれてもいないのに「昔のテレビは」と言われるのは、私が若くても耐えられない。半面、若い人に対してお願いしたいのは、私たちが話をすると「バブル時代の発想なんですよね」と言わないでほしい。お互いにそういうNGワードを決めて、話をすることが大切だと思います。
私のポリシーを言うと、自分が苦手な人に積極的に近づくようにしていました。苦手だというオーラを出していると、相手もわかるんですよね。あいつのことは苦手・嫌いだなとなると、いろいろなことがうまくいかなくなる。プライベートはともかく、仕事の中では自分が苦手だなと思う人には、できるだけ積極的に近づくようにすると収穫も多い。苦手でも優秀な人はたくさんいるわけですよ。そういう幹から落ちてくる果実を拾わないのはもったいないじゃないですか。人間関係で恐れを持たないことは重要ですね。
――来年は日本でラジオ放送が始まって放送100年の節目の年です
ラジオは、学生のころに『オールナイトニッポン』(ニッポン放送、1967~)や『パック・イン・ミュージック』(TBSラジオ、1967~1982)などの深夜放送を聞いていました。ラジオDJがしゃべりながら音楽をどんどんかけていく。糸居五郎さんは当時の洋楽にものすごく詳しかったですね。私は音楽が好きで、50's、60's、70's、80'sの40年ぐらいは洋楽に対する知識もあるので、そういうことをやってみたい夢はありますね。
放送100年ということで、それだけ一つの業界が長い間支持を得てきたということは喜ぶべきことですが、注意もしなければいけません。人間でも20代、30代は健康に気をつけなくてもいいかもしれませんが、70代、80代になるとそうはいきません。この放送というジャンルがこれからも長く続いていくためには、何かを変えていかないといけないと思います。放送業界は、実はコンサバティブで、いまこれをやる必要はないとなりがちですが、いまやっておかないと生き残れない部分も多いと思います。
(2024年8月28日、民放連にて/取材・構成=「民放online」編集担当・松浦寛斗)