30歳以下の放送局員に「これから」を考えてもらう企画「U30~新しい風」(まとめページはこちら)。16回は、テレビ東京の大森時生さんです。『イシナガキクエを探しています』を担当し、現在開催中の行方不明展では企画・演出を務めるなどマルチな才能を発揮されています。テレビに何を映したいのか、創作の源を教えてもらいました。(編集広報部)
記憶にある園庭
幼稚園のときの記憶。もう微かな記憶だ。僕はウサギに餌をあげていた。当時友だちはいなかった。でも、特に寂しいとは感じていなかった。まだそのときは、寂しいという感情ともまだ出会っていなかったかもしれない。ほとんどの時間をウサギにニンジンをあげることに費やしていた。今思うと、ウサギも昼下がりにはもうお腹いっぱいだっただろう。付き合いで食べてくれていたのかもしれない。幼稚園の先生も心配していた。「ご飯のあげすぎはダメよ」と。大量のニンジンを消費させることに興じる幼児から、何か暗い陰を感じていたのだろうか。ウサギの胃袋よりも、そっちに不安を感じていたのかもしれない。
ウサギの名前は覚えていない。あんなに一緒にいたのに。園名も先生のことも何も思い出せない。でも、覚えている風景がひとつある。誰もいない園庭だ。なんの時間だったのだろうか。いつもは歓声をあげる園児がいっぱいの園庭が、そのときはなぜか僕しかいなかった。そこに見えたのは、いつもより広く見える校庭、点在するいくつかの遊具、そして目の前のウサギ。僕のことを見ていた。犬猫と違って、ウサギの目からは感情が読み取れない。そのときの、その目は鮮明に覚えている。
幼稚園は僕が卒園したあとに取り壊されたらしい。もう僕の記憶の中にしか存在しない幼稚園。ウサギはどうなったのだろう。知る術もない。
あの目を思い出そうとすると、"Liminal Space"という言葉が頭に浮かぶ。Liminal Spaceは、Xのタイムラインで毎日のように(自分だけ!?)流れてくる。現実にありそうな風景。見たことがある気がする。でもそれらは存在しない。モチーフとなるのは、ホテル、スーパーマーケット、階段、コンビニ、プール、空港、公園などなど。私たちの生活で見慣れたものたちだ。ただひとつの大きな特徴は、そこに誰もいないということ。本来ひとで溢れている空間から、人間だけが丁寧に取り除かれている。あの日の園庭は、それだった。思いだすと不安な気持ちになる。ただ一方で強烈に惹きつけられる。なぜだろう。
テレビは「つまらない」
テレビの話をしないといけない。なぜならこの文章は一般社団法人日本民間放送連盟(漢字連続十四!)のウェブサイトに掲載されるからだ。テレビはいま不思議な立ち位置にいる。パブリックイメージとして一番に挙げられるのは、「つまらない」ということだろう。
⚠️一応付記しておくと(保身のためにも)僕はめちゃくちゃ面白いと思っています!
同世代と話していて、テレビを日常的に見ている人は(本当に一人も)いないし、口を揃えて皆「テレビ=面白くないもの」と言って憚らない。見るとしてもYouTubeで違法アップロード、それも一部を切り抜いたものくらいみたいだ。テレビはなぜこんなにも、つまらないとされているのだろう?
テレビ局内だと、それはある種若者のイキリとして扱われている気がする。「結局YouTubeで『水曜日のダウンタウン』を見ているじゃないか」「テレビを見ないっていうことがカッコイイと思っているんでしょ」的な言説。でも僕自身はそれもピンとこない。2000年代ならいざ知らず、令和においてはテレビを見ないというアピールはあまりにカッコよさを伴わないから。
余談だけど、この前大学生と話したとき「テレビを見ている」ということはある種の"サブカルアピール"になるという話を聞いた。僕が大学生のころ「ヌーヴェルヴァーグはあらかた全部みた」と宣う同級生に感じたあの気持ち、それと一緒なのかもしれない。サブカルチャーとしてのテレビ。
サブカルチャーとしてのテレビ
誰もいない園庭を見た日。家に帰ってからテレビを見た。そこには激突する2機の飛行機と、崩れ落ちるビルが、何度も繰り返し映されていた。これを機に世界が一変する。子ども心にそう思った。
アナログホラーというホラージャンルがあるのをご存知だろうか? 一番有名なところでいうと、Local 58だろう。Local 58はアメリカのテレビ局...という設定だ。実際はどこにも存在しない、架空のテレビ局だ。そのテレビ局が起こした放送事故という設定の一連の動画群が"Local 58"(YouTubeチャンネルに遷移します)と称される。
<Local 58 "Contingency" >
Local 58の中でも特に代表的な作品が、"Contingency"だ。日本語に訳すと、「有事対応」だ。アメリカが戦争に敗北した世界線で、放送されたテレビ番組だ。Local 58=テレビ局は国民にあることを命じる。それが何かは実際にご覧いただきたい。マスメディアであるテレビの不気味さを存分に生かしたウェルメイドなアナログホラーだ。
でも、現実のテレビはそんなことはしない。テレビでバラエティ番組を見ていると安心する。ちゃんと面白くて、有益な情報も手にできる。非の打ち所がないのだ。それを若者がつまらないと思ってしまうのは仕方がない気もする。そもそも「つまらない」ということは、何も悪いことではないし。
ウサギとテレビ
お盆に実家に帰った。母親と自分が幼少期のときの話をした。ウサギとばかり戯れていた僕のことをどう思っていたのか? と聞いてみたら、こう返ってきた。
ウサギなんていなかったよ。
そんなはずはないとしばらく粘ったものの、私は毎日送り迎えしていたんだぞと一蹴された。ウサギどころか動物は何もいなかったらしい。
記憶とは不確かなものだ。それは僕もよくわかっている。もしかしたら母親の記憶違いかもしれない。ただ不思議と、ウサギはいなかったんだろうなという確信めいた気持ちもある。「つまらない」とされているテレビで生み出したいのは、この感覚かもしれない。不気味さと郷愁、吸い込まれるように惹かれる気持ち。
<行方不明展 9/1まで開催中>
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