番組に関わっていただいた全ての方に感謝します。取材に応じていただいた方のうち、分かっているだけで3人が亡くなっています。本当に残念ですが、つらい話も誠心誠意していただいて、心からありがたく思っています。
「なぜ父は私たちを満州に連れて行ったのだろう。そうしなかったらこんな思いをしなくて済んだのに」......。ある中国残留孤児の言葉が番組づくりのきっかけでした。山形の若者たちはなぜ満州を目指したのだろう。そして、それは今にどうつながっているのだろう。知りたいと思いました。
最初の取材は、満州開拓親子地蔵尊の70年法要でした。開拓関係の碑というと、「拓魂」など勇ましい感じのものを多く目にしますが、地蔵さまから伝わってきたのは煎じ詰めたような悲しみです。建てられたのは敗戦の2年後。食うや食わずの暮らしの中で、生き残った人たちも自ら浄財を出し合いました。参列していた開拓団の生還者、佐藤末子さんは「伝えたいことはいっぱいあるけど、話したくない」と語りました。満州では死ぬのが当たり前で、母が死んでも涙も出なかったという村井ともみさんも「皆さんに分からせようとしても分からない問題。みんな口をつぐんだ」と話します。末子さんやともみさんの思いをどれだけ伝えることができたか、全く自信はありません。結局のところ、言葉にできないぐらい、私たちの想像が及ばないぐらい、大きく深いものだとしか伝えられなかったように思われます。そして、口にできない、したくない満州の記憶を、思いを、開拓団の人たちは決して忘れようとはしませんでした。それは、満州に残してきた人たちとの約束であり、実際に忘れられるようなものではなかったのだと思います。
「牛歩確実也」。青森県六ヶ所村庄内の入植30周年記念碑に刻まれた文字です。六ヶ所村の人たちも、北海道の「天北の庄内」の人たちも酪農に活路を見いだしました。ヤマセや雪、泥炭と水に耐え、やせた大地に踏ん張りながら、ゆっくりと一歩ずつともに歩む開拓者たちの姿が牛の姿と重なりました。もうひとつ、耐え難い結末を迎えた満州の記憶を決して吐き出すことなく、何度も反すうするイメージもまた牛の姿とだぶりました。
山形の若者たちはなぜ満州に向かったのか......。貧しかったことは確かです。でも、貧しかったのは山形だけではありません。「耕す土地を持たず、行き場のない農家の次三男の未来を開きたい」――佐藤繁作さんも鈴木壮助さんもそんな使命感に突き動かされていました。しかし、満州に第二の古里・庄内をつくろうとした試みはつらい結末を迎えます。多くの命が失われ、生きて戻っても「余計者」、ふるさとに居場所はありませんでした。戦後の開拓も厳しい環境に何度も阻まれます。しかし、繁作さんも壮助さんも決して諦めませんでした。満州開拓も戦後の緊急開拓も「国策」です。誰も責任を取らないのが国策なら、彼らは自分たちの責任を引き受け、それを果たそうとしました。「三つめの庄内」にはかつて余計者といわれた人たちの志と覚悟が今に受け継がれています。そして、5年余り落としどころも見えないまま取材を続けてきたこの番組を何とか形にすることができたのも、決して諦めない人々の姿に励まされ、後押しされたからにほかなりません。