サガテレビ・田村淳一郎さん 体験をことばとして引き出し、伝える【戦争と向き合う】⑪

田村淳一郎
サガテレビ・田村淳一郎さん 体験をことばとして引き出し、伝える【戦争と向き合う】⑪

シリーズ企画「戦争と向き合う」は、各放送局で戦争をテーマに番組を制作された方を中心に寄稿いただき、戦争の実相を伝える意義や戦争報道のあり方を考えていく企画です。
第11回はサガテレビの田村淳一郎さん。戦争体験者を取材して放送することで「戦争の記憶を遺す」ことに加え、デスクとして「取材する人間の育成」にも注力します。終戦企画を続けるうえで大切にしていることをまとめていただきました(冒頭写真は戦争の体験談を聞く田村さん)。(編集広報部)


「このままだと、いずれ戦争を直接体験した人もいなくなるし、取材する人間もいなくなる」と思ったのが、きっかけだったと言えば大げさかもしれない。が、真面目にそう思っていた。

茨城県のラジオ局で記者になって1年目のとき、先輩にまかされたのが戦争体験者を取材してまとめ、30分ほどの番組にすること。元々中国戦線帰りの祖父に"戦場体験"は何度も何度も聞かされていたので、取材自体はあまり苦にならなかった。ひと月に1本、20人近くは体験を聞いたと思う。テレビ局に転職してから3年後の2014年に半年に1本くらい戦争体験者の話を放送していたが、その後デスクとなり現場から少し離れると、「戦争の記憶を遺す」ことに加えて、「取材する人間の育成」にも注力しなければいけないと思い始めた。

私は幼いころから祖父の戦争体験を聞き、左肩から胸に抜けた貫通銃創痕も何度も見せられていた。加えて小さいころから戦記ものや戦争映画も好きだったので、ラバウルと聞けば「海軍航空隊ですね」とか、シベリア抑留と聞けば「満州にいたんですか?」と応じていた。しかし、当然そんな会話についていける平成生まれの記者はおらず、加速度的に体験者が減るなか、自ら志願して「終戦企画」を取材しようという若手はいなかった。

偉そうに言ってはみたものの、自分だって言われなきゃしていなかった。でも、いつの間にか"ライフワーク"みたいな存在になっていた。「そうだ、ならば有無を言わせず取材させよう」と思い立ち、若手記者に「終戦企画11本」を厳命したのが、2017年。

"じか"に聴くことを大切に

当初は「またこの季節が来たんですね」と嫌な顔をされたが、1年2年と続けていくうち、通常の取材で90歳以上の高齢者を見かけると、記者やアナウンサーたちは「戦争体験者ですか?」と聞くようになり、実際日常の取材から取材対象者を見つけることもあった。その甲斐あって、昨年2023年は終戦の日前後に711人、今年も7本7人の体験を放送した。

資料映像の権利の関係で、取材した多くの体験は動画でインターネットに載せられないが、放送だけで終わるのはおしいと、報道部内でネット系を担当しているデスクがコツコツと読み物記事として再編集。静止画と文書でまとめ「戦争の記憶」として当社のウェブサイトに掲載し、2022年からこれまでに38人の体験を公開している。また、教育現場でも使ってもらえないか総務部も交えて検討している。

当社の「終戦企画」はNHKスペシャルのように、海外取材もできないし、わかりやすい詳細なCGもつくれない。でも「戦争体験者の話をじかに聴き、おおげさな脚色をしないこと」にはこだわっている。また、佐賀県に住む人、佐賀県内で起きたことなどに対象を絞り、"遠い場所で起きたこと"にしないよう気をつけている。

特攻出撃直前で終戦を迎えた海軍搭乗員、原爆の被爆者を手当てした日赤の看護婦、戦艦大和とともに出撃した駆逐艦に乗っていた軍医、内地で空襲を受けた女性、B29の墜落現場を撮影した少年など、高齢で聴き取りにくくても、「じか」に体験した人の話には、その人でしか言えない言葉、思いが込められている。「戦争反対」と言わなくても、戦争の愚かさ、悲惨さ、悲しさが体の中に入ってくる。

「毎日ごちそうが夢の中に出てきて、それをつかもうとすると目が覚めるんだよ。情けないことに」と語ったシベリア抑留者、「水を求める被爆者が、隣の人のおしっこを飲むんですよ。こんなことありますか」と原爆の惨状を伝えた元教師。「特攻前日の夜、泣いていた。その同期の後ろ姿が忘れられない」......きのうの出来事のように話した元パイロット。徴兵されたり、青年期に当時の雰囲気に乗り軍隊に入ったり、銃後で空襲を体験したりした人はおおむね、戦争の悲哀を語る。

一方、「こちらが考えていることは敵も考えている。犠牲は戦争だからしょうがない」と淡々と話したペリリュー島帰りの元陸軍少佐、「対空砲の曳光弾(射撃後に発光し、弾道が見えるようにした弾丸)がアイスキャンディーのように向かってきたが、怖いと思う暇はなかった」と冷静に振り返った真珠湾攻撃に参加した艦上爆撃機の元機長など、職業軍人は比較的「戦争はしかたなかった」という思いになっていたのも、いま振り返れば率直な生死感や歴史感だったと思う。

「戦争体験者」にしか語れないことを

若手の記者やアナウンサーが戦争体験に触れる機会は少なくなってきているが、やはり「じかに話を聴く」というのは何よりも大切なことだ。2022年春ごろ、苦手意識を持っていた若手がミッドウェー海戦で空母「加賀」の元乗組員を見つけてきた。アポを取りつけ、終戦の日直前に取材しようとした矢先、体調が悪くなり起き上がれなくなったという。その人は当時100歳。無理もない。「高齢者はいつどう体調を崩すかわからない。見つけたらすぐ取材にいかななきゃだめだ」と諭すと、憮然とした表情を見せていた。当然、本人が一番悔しいのだ。そして1年後、もう一度連絡を取らせてみたところ「存命で15分だけなら話してもいい」ということになり、結果45分、貴重な体験を収録させていただいた。

背後から敵の飛行機が迫り爆撃され、気がついたら海に投げ出されていたこと。鹿児島県出身の同期が「おっかあ」と言いながら、海に沈んでいったこと。戦場のむごさを語ってくれたが、一番私が心に響いたのは「死んでいった戦友に申し訳ない」という言葉だった。私の祖父もそうだったが、「自分だけ生き残って申し訳ない」という感覚が、多かれ少なかれ従軍した兵士にはある。祖父は手記の中で「死んだ戦友が夢に出てくる」と書き残していた。アメリカをはじめとする連合国と総力戦を繰り広げていたことなど"教科書のなかでの出来事でしかない"いまの多くの日本人とっては許容や理解しがたいかもしれないが、こういう言葉は「戦争体験者」しか語れないと思う。

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<空母「加賀」の元乗組員に体験談を聞く>

報道に身を置く人間として戦争とどう向き合うか、後進にどう向き合ってもらうか、と問われると正直、うまく言えない。ただ、後輩たちに言うのは「『戦争はいけない』と言わせるのではなく、その人の体験をきちんと言葉として引き出し、伝えること。そして余計で大げさな脚色をしないこと」とは言っている。体験者が事実を語る、それを淡々と伝えることが、われわれ報道の一つの責務だと思う。

来年で戦後80年。戦後50年のとき、高校生だった私は祖父が出征していた中国での体験を市の平和作文コンクールに書き、賞をもらった。それが縁で、新聞社が私と祖父を取材しに来た。そして、取材された側が、取材する側になった。「伍長など下士官が、戦争が一番強かった。でも、逃げた捕虜は見逃してやればよかった」と、後悔を交えながら戦場を教えてくれた祖父は6年前に多くの戦友のもとへ行った。

こういう言い方は失礼かもしれないが、残り時間はわずか。「戦争体験者」が1人もいなくなるまで、声を集め続けたい。

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