いつもの長話を何度も聞かされ、うんざりする。ついには、その人を避けるようになる......。誰にでも思いあたる、ごくありふれた経験だが、マス・メディアでも似た現象が起こる。典型例は、以前に筆者が紹介した、ロイター・ジャーナリズム研究所による『デジタル・ニュース・レポート』に見られる。2022年初頭に実施されたこの調査では、6大陸・46カ国の約9万3,000人の実に4割近く(38%)がときに、あるいはしばしば積極的にニュースに触れないようにしており、その理由の筆頭は「政治とCOVID-19ばかり」(43%)であった。「ニュースの量に疲れる」(29%)とあわせ、同じ題材への飽きが報道忌避につながっていることがわかる。軽度ではあるが、似た傾向は日本にも見られる。また、同レポートは、ニュースを避ける動きがロシアのウクライナ侵攻後にさらに深まっていることも示唆している。ジャーナリズムにとって、これは永遠のジレンマだ。題材が重要であればあるほど、社会の関心、またそれに応える必要性・意義は高まる。ところが、多量の情報を長期にわたり伝えると、ある時点から人々は食傷気味となり、ついには敬遠するようになる。集中的なニュース報道につきまとう宿命といえる。
この現象のメカニズムを、政治的・公共的な争点を事例とし、質的な方法で解明しようとしたのが、今回紹介する論文「延々とつづくニュースは疲れる? 同じニュースへの接触のくり返しは受け手にどう影響するか」である。スイスとドイツの2人の研究者による共著で、『Mass Communication and Society』(22年7・8月号)に掲載されている。放送に特化してはいないが、テレビ・ラジオをはじめ、あらゆるニュース媒体に共通する普遍的なテーマである。
争点への負の感情がメディアにも
論文が扱っている事例は、スイスにおける「ブレグジット」(Brexit、イギリスの欧州連合=EU離脱)報道で、約2カ月間にわたるオンライン上での半構造化(semi-structured)された日記とインタビューにより、特定の争点への反復したメディア接触が受け手にもたらす影響を具体的に明らかにしている。データ収集期間は、離脱の条件をめぐる合意が難航していた2019年4月下旬から6月中旬で、日記には35人(スイス在住、平均年齢50歳、女性は17人、大卒以上が62.9%)、そのうちインタビューには18人が参加している。
まず、認知・感情レベルでは、同じ争点に関する報道がつづいたことで、争点それ自体(ブレグジット)について「冗長」「冗漫」「進展性の欠如」「政治(家)に対する不満」といった認識をもち、そこから「いらだち」「怒り」「退屈」を感じていることがわかった。ポイントは、争点に対する否定的な評価が、同じく否定的な感情につながっていることである。マス・メディアの報道に対しては、「新規性の欠如」「センセーショナル」「個人の過度な強調」「深みのなさ」「難解」という受けとめが典型的であった。つまり、争点そのものに対する否定的な認識が負の感情をともない、さらに同様の評価がメディアにもむけられる傾向が見られた。
総体として過剰な報道と認識
では、争点に対する評価とメディアの評価はどう関連するのか? 大きく3つのパターンが浮上した。
第1は、争点自体とメディアを別個に判断する人々である。この場合、たとえブレグジットにうんざりしていても、それとは切り離して報道を評価している。
第2は、双方を同一視するパターンで、ブレグジットもそれを報じるメディアも同じく否定的に見る。一蓮托生というわけだ。
第3は、第2のように争点とメディアをともに否定的に捉えながらも、政治(家)とメディアは別個に評価するグループである。これ自体がさらに多様な形態をとるが、一例は、ブレグジットもその報道にも不満だが、問題の根本は解決に手間どる政治(家)にあるのであり、たとえ冗長で退屈でも、その様子を伝えるのがジャーナリズムの役割だと切り分ける考え方だ。
情報量に関しては、2種の評価が見られた。一方では、満足感を覚えている人々がいた。彼らは自身のニーズに応じてメディアに接している、つまり、十分な自己コントロールのもとブレグジット報道にむきあっていると考えているわけだ。他方、必要とする以上の情報量に接し、メディアが過剰に反応していると感じる回答者もいた。望みもしないブレグジットの話題ばかりを押しつける、という不満をメディアにむけているのだ。ただし、「量」ばかりでなく、「頻度」を問題視する人々もいた。彼らは、放送・印刷・ネットなど多様な媒体で頻繁に同じ話題に出くわすため、必ずしも摂取する量が多くなくても、総体として報道が過剰だと認識している。
不快感を、どう軽減できるか
では、最終的にいかなる情報行動(ニュース回避)に帰結するのか? 大別して、回避には「認知的」と「行動的」の2種が認められた。前者の「認知的」回避は、簡潔にいえば、つまらなく感じ、報道への関心・集中度を薄める反応のことだ。テレビやラジオをつけたまま、なんとなくやり過ごしたり、掃除をはじめるなど「ながら」視聴をする受け手を思い浮かべればいいだろう。他方、後者の「行動的」回避は、より積極的に報道から逃れる反応だ。たとえば、放送の視聴、新聞の閲読を中止し、スマホを操作しはじめる、シャワーを浴びる、といった行動である。マス・メディアにとっては、より望ましくない展開だといえる。
以上の知見をふまえ、最後に、日本の放送界を意識して、いくつかの私見を記す。
まず、同じ話題のくり返しに辟易してニュースを避けたからといって、必ずしも送り手であるマス・メディアまでを嫌悪するとは限らない点には留意すべきだ。テレビやラジオではなく、争点、あるいはその直接の関係者自体に問題の根本を見いだす視聴者は一定数いるはずで、たとえ少数派でも、彼らこそジャーナリズムの良き理解者である可能性が高い。とはいえ、結果として、類似した情報の反復が受け手を退屈・疲弊させ、否定的な感情・反応を招く現象は確実に、かつ広く存在する。「ニュース疲れ」のジレンマは永遠に解消できぬと覚悟すべきだろう。
であれば、現実的な対策は、「ニュース疲れ」にともなうメディア自体への不快感を、どうすれば軽減できるかを探ることだ。論文が示唆するのは、冷静で客観的な報道姿勢の重要性だ。逆にいえば、特定個人の過度な強調、大げさな表現・形容、印象的な映像・音声の反復、主観的な意見の応酬などは、センセーショナリズムや偏向報道といったマス・メディア自体への否定的な評価を生みかねない。しばらく単調な報道がつづきそうなときこそ、あえて淡々と伝えたほうが、反動を最小化できるのかもしれない。