旧ジャニーズ事務所元代表者による人権侵害行為を契機に、民放onlineは「人権」をあらためて考えるシリーズを展開中です。憲法学、差別表現、映画界における対応、ビジネス上の課題などをこれまでに取り上げてきました。5回目は視点を少し変え、作家の鈴木凉美さんにご自身のキャバクラ店勤務やAV女優などの経験も交え、ともすれば「搾取される側」と一面的に括られがちな性産業従事者たちの意識にも寄り添いながら、「人権」という概念が持つグラデーションと「表現すること」を考えていただきました。(編集広報部)
日舞もバレエも十歳になる前にとっとと挫折した私は厳しい折檻や体型の制限などとは無縁だったが、それでも一観客としてそこにある伝統的な形式美を愛でるとき、一度だけ足を入れたトウシューズのあの硬さを思い出して、美しさの代償について考える。もちろん私の記憶の中で、バレエのお稽古に通っている友人たちの多くがトウシューズの練習でできたマメの痕や爪の変色についてどこか誇らしげだった。それでも努力の証と当事者の犠牲の間にある、とても線など引けない複雑な構造については考え続けている。
その複雑さと難しさがとりわけ私の身に染みるのは、バレエの忍耐とはほぼ無関係だった私もまた全く別の次元で、個人の選択と人権が複雑怪奇に作用しあう現場にいた自覚があるからだ。2022年、「AV出演被害防止・救済法」、俗に言うAV新法がアダルトビデオの出演被害の防止と被害者の救済を目的として成立した。出演時の契約の曖昧さや出演強要、あるいは現場で受けた不当な扱いを訴える者が相次いだことに由来するわけだが、AV女優ら関係者の一部からの新法への反発は強く、いまだその議論は続いている。法律による撮影の延期や中止、具体的に業務が停滞するなどの影響も懸念されていたものの、大きな反発を呼んだ最も大きな理由は、女性の人権を守ろうとした同法律の成立過程が、現役で活躍するAV女優など、性産業への偏見をなくしたいと考えて働く当事者の尊厳を傷つけるものだったからだと個人的には思う。
グラデーションの海の中で
金銭的、あるいは何かまた別の切実な理由があるにせよ、仕事を選んだ者はその選択をなるべく卑下することなく肯定的でいられるよう自尊心の持ち方を変化させていく。他者から見れば不自然な形に鍛えられた足先よりもっとずっと歪(いびつ)なものであっても、渦中にいる本人にとっては誇らしいものになり得る痛みというものがある。足先を痛めながらお稽古事を楽しむキッズたちの多くがトウシューズを履かされることよりトウシューズを取り上げられることを苦痛に思うように、他者から見れば過去や人生に傷がつくように見える経歴を負うことより、その経歴を人権侵害の被害として取り上げられてしまうことを屈辱的な経験と考える者だっている。
かつて似たような現場にあって、やはり"自分の意思で積極的に業界に飛び込んだ"AV女優として何年か働いた経験ある身としては、法律に反発し、性産業や性労働と性搾取を明確に区別したいと考える彼女たちの気持ちに共鳴するところは大いにある。個人的に言えば私は現場で多少痛い目にあうことよりも、社会に勝手に被害者化され、選択を無効化され、弱者として同情されたり救済されたりする方がよほど人権侵害のように感じていた。今でも過去を被害として語らされることには大きな抵抗がある。
ただし、仮にも出演からすでに二十年、引退から十五年以上たった今、自分の意思で誇りを持って働く彼女たちと、過去の出演被害を訴える彼女たちが、今目に映るほどはっきり二分されるわけではないことも実感している。誇り高き彼女たちがこれから永久的に誇り高き彼女たちで在り続けるわけでも、悲痛な被害者として訴え出ている彼女たちがこれまでずっと継続的に悲痛な被害者であったと限るわけでもなく、彼女たちの境目は曖昧で、ふとしたことで入れ替わり、グラデーションの海の中を絶えず動き続けている。そういう意味では圧倒的事実に見える"当事者の声"ですら、常に信頼できない語り手である可能性を孕(はら)んでいる。誇りと被害は大本が同じ場所にあることも多いからだ。
社会学者でありながら実際にバイク便ライダーとして働いた経験をもとに著(あらわ)された阿部真大『搾取される若者たち』は、まさに"誇り高き"バイク便ライダーたちが危険で不安定な職に積極的にのめり込んでいき、ワーカホリック状態になっている職場の文化を丁寧に描き出した傑作だが、このとき、彼らのプライドや好きな仕事をどれだけ尊重し、また彼らの言葉をどれだけ信頼しないか、という問題は結構根深いと私は思う。寝食忘れるほど没頭する趣味や仕事は職場での基本的人権を侵害するが、それだけ没頭できるものに出逢う幸福もまた、われわれの多くに何かしら心当たりがある。
表現者として私は長く、できればそれが社会的には「典型的な何かの被害」に見えるものであっても、あるいは後からの気づきで本人の中でも被害として書き換えられてしまう可能性のあるものであっても、その居場所をその時点で必要とする者、その瞬間に燃える感情の粒のようなもの、どのような状況でもその場に生まれる楽しみやおかしみ、誇りや尊厳を無視しないでいたいと考えてきた。
彼女たちのそういう尊厳の欠片(かけら)は、例えば映画『赤線地帯』で溝口健二が、論考「売春のどこがわるい」で橋爪大三郎が、漫画『鼻下長(びかちょう)紳士回顧録』で安野モヨコが、最近では映画『ラ・メゾン 小説家と娼婦』などがそれぞれに拾い集めて丁寧に描き込んできたものである。一般的な人権とは必ずしも重ならない形で存在する愚かな喜びや没頭もまた、人が手放すべきではない権利だと考えてきたし、一般的な人権を守っているつもりになって、少人数の奇妙な誇りを持つ者を踏みつけたり手ではらったりするようなまねをしたくないと思っていた。それは当然、かつて一般的な女性の権利を守る言説になんとなくプライドを傷つけられた自分自身の経験に根づいている。
ただ、その声を大切にすることはとても勇気がいることであると同時に、注意を必要とすることでもある。変貌し得る彼女たちの声を拾えば、ともすれば搾取する構造を肯定し、搾取しようとする者の論理を強化することにもなりかねない。その後いかようにも変わっていける彼女たちを"誇り高き何か"に縛りつけることになるかもしれない。彼女たちの一時のプライドや楽しい時間を無視しないことと、彼女たちが後にそのプライドを修正したり捨てたりする自由を奪わないことは、同時に遂行しなければ意味がない。そしてまた、現場で煌めく尊厳の欠片を愛でる態度が、その現場を普遍的に肯定する態度と区別されなければならない。ポルノ業界のように、存在そのものが誰かを不快にさせたり、ともすれば世に絶望させたりするような場所であればなおさら。
揺れ動いていることも一つの解
旧ジャニーズ事務所問題に揺れた昨年、特殊で不透明で、なおかつ多くの憧れや尊厳が乱暴に投げ込まれたようなエンタメ業界はその困難にものすごく急に、激しく激突したのではないか。われわれは長く、"何となくあやしげなことがあるのではないか"という確信に近い疑念を共有しながら、そのあやしさも含めた彼ら演者の関係や裏話を楽しみ、消費してきた。性的搾取やグルーミングという言葉が飛び交う中、そこに確かにあった彼らの魅力や楽しそうな様子を全て修正しなければならないと焦った者は視聴者、製作者にかかわらず多くいたように思う。
あるいは最近、東京藝術大学大学美術館が開いた「大吉原展」の広報ページの冒頭には、遊郭が人権侵害であることが大きく表記され「二度とこの世に出現してはならない制度です」という、展示全体のコンセプトを思えばやや野暮にも思える但し書きがあった。そこには当初の広報の表現が「さまざまな意見」をいただいたことを「重く受け止め」る旨も記されている。本来はそのような但し書きをするまでもなく、遊郭の制度を調べて現在の人権意識から酷くショックを受けることと、そこに暮らした遊女たちの誇りや文化に感嘆することは、どちらも別個に経験でき、また少しずつ自分の中で両者の点と点が結ばれていくはずのものだ。シルヴィ・ギエムの「ボレロ」に魅了される経験と、バレエダンサーの過酷に制限が設けられた肉体の酷使を知る経験が、どちらも尊いものであるように。
世界的な人権意識の進歩に遅れをとりながらも徐々に進む人権配慮の意識はいまだまばらで、決着を見ず、常に修正され、批判され、揺れ動いている。私はその揺れ動いていることこそが一つの解であるように感じる。私自身に身に覚えのある、今よりもっとずっと"意識の低い"「二度とこの世に出現してはならない」ようないい加減な制度が横行していた業界で、肉体をモノのように扱われながらもそこにどうしたって存在した悦びや煌めきを、時代意識の変化によって「二度とこの世に出現してはならない」被害として書き換えることはできない。しかし運よく生きてきた自分以外に、その場で傷つけられた尊厳があることも気づかなかったことにはできない。たとえ両者がどんなにお互いを邪魔するような事実であっても、何かをなかったことにすれば物語が綺麗にとじられるとしても、一方をなくてよい表現だと断定するにはあまりに早いし、この揺れ動きを愛でることができなければ、人間を愛することすらできない気がするのだ。