民放onlineはあらためて「人権」を考えるシリーズを展開中です。憲法学、差別表現、映画界における対応、ビジネス上の課題、LGBTへの対応などをこれまでに取り上げてきました。7回目は、本誌に四半期に一度のペースでタイムリーなテーマで論考を寄せていただいているライターの香月孝史さんに、人権を考えるうえで時に見失いがちな視点を、あるドラマから読み解いていただきます。(編集広報部)
民放onlineが今春から継続的に掲載している「シリーズ『人権』」では、「人権」を共通テーマとして各分野の寄稿者によって、多面的な論点整理が蓄積されている。今回、同シリーズへの寄稿にあたって着目したのは、エンターテインメントを作る側がそうしたテーマの問題系をいかに自覚し、クリエイティブのうちに組み込んでいけるかという問いである。そこで本稿ではまず、今年5~6月にかけて放送されたドラマ『パーセント』(NHK)の試みにフォーカスする。障害や「多様性」をテーマに掲げたコンテンツを制作するメディア従事者たちをフィクションとして描く同作は、その描写一つ一つが現実のメディア従事者の姿勢を逆照射するような作りをもつ。同作の構造をあらためて整理することで、広くエンターテインメントやマスメディアがしばしば「人権」を置き去りにしてしまう際の過程の見直しまでをも促すような、普遍的な問題設定へとつながっていくはずである。
「好意的」な姿勢にこそ垣間見える差別性
放送批評懇談会による「ギャラクシー賞」の、2024年5月度の月間賞に選出された土曜ドラマ『パーセント』(外部サイトへ遷移します)は、同名のドラマを制作するローカルテレビ局を舞台にした、メタ構造の作品である。障害のある俳優をドラマに起用するまでのプロセスを物語として描きながら、マジョリティがもつバイアスや無意識に見過ごしている慣習を浮き彫りにし、また「多様性」というワードがスローガンとして掲げられる際に正当性と打算とが表裏一体に絡み合うさま、あるいはマイノリティが被る不均衡に対する当事者たちの思いもまた一様ではないことなどを、巧みに示してみせた。
そして、そのストーリーがほかならぬ障害のある俳優たちによって演じられることで、物語内の試行錯誤やクリティカルなメッセージはそのまま、このドラマ自体にも突きつけられる。本作はあえてこの自己批評的な構図を用いながら、マイノリティ/マジョリティのありようや立ち位置を単純化せず、複雑なまま受け止めようとする。その姿勢は、ジャンルを問わずエンターテインメントにおいてしばしば無自覚に立ち現れる、差別的な表象の問題をいかに考えるかについて、多くの示唆をもたらしていた。
『パーセント』は、自身の企画書が採用されプロデューサーとして学園ドラマを制作することになった吉澤未来(伊藤万理華)が、編成部長に「多様性月間」のキャンペーンに合わせて、ドラマの主人公を障害者にするよう指示を受けるところから物語が動き出す。障害のある俳優の起用を条件に企画を進めるなか、吉澤は車椅子に乗った高校生・宮島ハル(和合由依)と出会い出演オファーをするが、企画書の記述や吉澤の言動に「障害を利用される」と感じた宮島はその打診を拒絶する――。
宮島が吉澤に対してたびたび指摘するのは、健常者の振る舞いのうちに見られる、差別的な表象の存在である。「めげず」「乗り越える」といった常套句が使用され、障害者自身の頑張りに視野が収斂することで、そもそも当事者個人ではなく社会全体のほうに問題があることが覆い隠されてはいないか。あるいは、障害者を表舞台に起用する際に、視覚的に「わかりやすい」障害のある人を求めているのではないか。それらは、表向きにはむしろ好意的な姿勢を示そうとするなかにこそ見出される問題性である。
相反する立場から見えるもの
他方、マジョリティに対するマイノリティ側からの問題提起は、当事者間において一枚岩である必要はない。障害を利用されることを警戒して一旦はオファーを断る宮島に対し、彼女と同じ劇団に所属する高木圭介(成木冬威)は、そもそも健常者ばかりが表舞台に立ち、自分たち障害のある者の出演機会が奪われている現状を指摘、それを変えるためにこそオファーの機会を受け入れるべきであると主張する。健常者からの視線に対する二人のアプローチは、わかりやすく相反するものに見える。
だが、宮島と高木両者のスタンスはいずれも、マイノリティに対して社会が向ける周縁的な扱いの諸側面を、それぞれの角度から映し出すものだ。重要なのは、対立する立場のいずれかを固定的に正しい方針として採用し、他方を否定することではない。当たり前に得られるべき権利や扱いを求めるための複数のアプローチはいずれも、次の段階に向かうために必要なエレメントであるはずだ。
コンテンツを制作する側が掲げる一見進歩的な方針にも、『パーセント』は問い直しの視線を向ける。テレビ局の編成部長・藤谷(橋本さとし)が「多様性」を掲げて障害のある俳優の起用を強調し、「新時代」の制作現場のあり方を模索せよと指示するとき、社会的な不均衡打開への志向をめざす言葉の裏に、「進歩的な思考をもつ者」としての己のポジションを確保しようとする打算も見え隠れする。
そして、そもそも主人公の吉澤の企画が採用されたこと自体が「ジェンダーバランスを鑑みて」の差配だったと明かされることで、彼女自身が当事者として被る社会的な不均衡とドラマの主題とが二重写しになる。「多様性」というワードが身近に語られる今日だからこそ、基本的には前進しているはずのその思想が実態において両義性をはらむ場合に、それをどのように受け止めればよいのか、アクチュアルな問いとして投げかけられる。
「わからない」自覚から始める大切さ
もう一点、『パーセント』がリアリティをもって描いていたのは、集団的なものづくりの現場で、多方面への対応や段取りに追われるうちに他者を尊重できなくなっていく過程である。出演者の労働環境を守りつつスケジュールを成立させようと奮闘するうちに、当の出演者の扱いがおろそかになり、また広報の場で進歩的なメッセージを求められて応えることで、かえって俳優たちの障害を利用するような発信を行ってしまう。主人公の吉澤がそれらの失態をおかすのは、決してマイノリティに対する無知や無自覚ゆえではない。プロジェクトが集団的に遂行されるなかで生じる齟齬や理不尽に飲まれていくなかで、その害悪性を十分に自覚していながら失態を甘受するほかない状況は、エンターテインメントに限らず、われわれが現実の至るところで経験するものである。
翻って、こうした描写から想起するのは、昨今各種のエンターテインメントにおいて頻出する、一見きわめて素朴な不手際の数々である。『パーセント』最終話が放送された6月初旬から現在までのごくわずかな期間にも、Mrs. GREEN APPLEの楽曲「コロンブス」のMVが植民地主義的な記号をちりばめた表現として批判を受けた件や、ドラマ『新宿野戦病院』(フジテレビ系)公式HP内の、「ジェンダーアイデンティティ」という語の不自然な用法など、差別性に無頓着であるような表象は立て続けに生まれている。
繰り返されるそうした事象について、われわれはともすれば単に制作者たちの基礎的な知識やリテラシーの欠如という観点から批判し、位置づけがちである。しかし、先の『パーセント』が描く制作現場があらためて示すのは、スケジュールや段取りに追われて進行する、集合的な制作の過程が常に、個々人の立場や属性、権利をないがしろにする構造を随所に生みうることへの想像力である。それは多くの場合、組織のなかに当該表現に関する知識やリテラシーをもつ人が存在すれば回避できるというほど容易なものではない。
現実に生まれてくる差別的、人権侵害的な表象に批判的な目を向けることは常に重要である。同時に、その表象が生まれた背景を単純化して断定せず、コンテンツ制作の現場に表現内容を自問するプロセスを持ちうるような余裕を求めていくことが肝要だ。「差別性へのリテラシーを持つわれわれ批判者」たちと「差別性に無頓着な制作者たち」といった安直な線引きで状況をわかった気になり、対象を指弾することが目的では決してない。
『パーセント』のキャッチコピー「わからない。でも。あきらめない。」には、目の前の対象を安易にわかった気になることを警戒したうえでなお、わかろうとすることを手放さない姿勢が示されている。「わからない」という自覚は諦観でも開き直りでもなく、新たな表現が生まれる現場を、ベターにしてゆく模索のための前提条件である。