2021総選挙が終わって少し落ち込んでいる。理由は結果、ではない。ちなみに自民「完勝」はおおよそ想定どおりで、すでに投開票前に公言していたところだ。傷心の理由は、筆者周辺の学生の投票率の伸び悩みにある。学科名がジャーナリズム学科であることとも関係し、少し口幅ったく言えば「賢い市民」を育てることが使命と思って教壇に立っている。いわば、広い社会的関心を有し、異なる立場や直接見えづらい背景に想像力を働かせ、事象を理解・分析する"知の整理力"をつけ、議論しそして行動する、といった当たり前のコミュニケーション能力の滋養であるが、別の言い方をすれば世にいう主権者教育でもあるといえよう。
その結果、テレビや新聞に接する時間も多少は長く、そして選挙に行く比率も低くない。前回の選挙では、投票日に友達からディズニーランドに行こうと誘われて、選挙に行くからと断ったら白い眼をされたが、私(たち)は変わり者なんでしょうか、と半分真剣に打ち明けられたりもした。ちなみに、日常的にテレビを見る習慣がある学生は、開講科目によっては7割ほどにまでなる(リアル視聴かどうかは問わない結果ではある)。しかし今回は違った......。
厳密な社会調査ではないことを前提にしても、彼ら彼女らの投票率は世の中並みあるいはそれ以下の低水準にとどまったという印象だ。この分析は筆者の専門領域ではないものの、一言でいえばコロナの影響が色濃く反映されているのではないか(超短期の選挙戦になったために、下宿学生の場合、住民票のある地元以外での投票手続きが間に合わなかったという物理的理由も関係していよう。こうした指摘は、在外投票の件は多少報じられたものの、報道ではなかったように思われる)。
コロナは選挙行動にどう影響したか
この1年半、大学もご承知のとおりオンライン授業に明け暮れた。ようやくこの11月からは、筆者の学科では対面授業が大幅に「復活」し、毎日、学生と直接会話できる日々が戻ってはきた。しかし一方で出不精になったのは、リモート出勤で会社に行くのが面倒になった会社員と、学生も同じだ。もちろん、入学からまともなサークル活動も経験していないし、授業もほぼすべてネット空間で過ごしてきたもののなかには、リアルを渇望する者も少なくないが、学年が上がるほど、むしろネットの世界に安住の地を見つけてしまった感が強い。自宅のベッドのなかで、スマホ片手に講義が受けられる手軽さは、一度経験したら手離すことは難しかろう。
この傾向は、ことのほかオンライン授業の継続希望が強いことからも見て取れるし、実際にハイフレックスといったリアルとリモートの併用講義を実施すると、教室に来る学生が少数派だったりもする。それは間接的に、リアルな現実社会との距離となって表れてきている。ついでにいえば、こうしたスマートフォンで何でもわかるとの思いが強まることは、ジャーナリズム活動への理解の低下にもつながりかねず、ジャーナリズム教育のあり方自身にも強い危機感がある。
前置きが長くなってしまったが、こうしたコロナによって生まれた現実社会との距離感は、前述のとおり決して学生だけのものではなく、社会全体の共通項であっただろうし、それを私自身も大学教育の場で、そしてテレビをはじめとする放送においても覆せなかったことに、この間の一連の選挙関連の報道の大きな課題があるのではなかろうか。そしてこのことは、これまでもいわれてきた報道の課題を、より顕著に表面化させたものではないかと思うのである。
選挙報道に何を求めているか
もう少し筆者周辺の学生の話を続けさせていただく。では学生はどんな選挙報道(狭義の選挙期間中のマスメディアの報道に限定せず、より広義の意味での一般的な選挙関連報道をさす)を求めていたか、である。筆者は当欄前記事「選挙報道のお作法」(10月25日配信)で、狭義の選挙報道の中心課題は政策にあるべきだが、これまでの放送の場合、候補者や政党の政策報道は「紹介」にとどまり、その比較検証や深堀りは不十分であったと書いた。あるいは、政策報道はえてして政局報道に流れがちな傾向もあった。一方で、情勢報道は開票日の特番開始時にゴールを設定し、いかに「ゼロ打ち」(開票率0%での当確報道)を行うか、獲得議席予想を行うかに精力を注入してきた経緯があろう。
こうした報道は、一様に学生は冷めてみていることが伺える。あえていえば、学生にとって総裁選報道が面白かったと評価されているのは、その人となりが垣間見えたことであって、河野太郎は「かわいい」(もちろん、私たちシニア世代とは語意が異なる)し、岸田文雄は「いいひとそう」などとのイメージを膨らませることができるからだという。一方で今回の総選挙では、みんなのっぺらぼうのうえ、自分の選挙区の候補者が誰なのかもわからないので興味がわかないようだ。
一方で、欲しい情報もあるという。それは「誰が勝つか」といった詳細な情勢分析結果だ。もし投票をするならば、〈死に票〉になることを嫌い、投票に行った意味があるように「勝ち馬」に乗ることを期待しているのだという。そこでは、候補者(政党)の政策を投票行動基準にするのではなく、勝ちそうな人に投票するということであるが、その前提としては政策の違いは分からないし、どのみち公約は実現しないものであって、それを知ったり検討したりする意味がない、と考えている節がある。
その延長線上として、選挙期間中に新聞やテレビから情報を得る者もいるものの、特段、日常的な情報接触行動が変わるわけではなく、Twitterトレンドや同ニュース、あるいはLINEから得られる断片的な情報のなかで、誰(というよりどの党)が一番人気があるかを推し量り、投票行動に結び付ける傾向が強い。それは以前の、関東圏の大学生調査で、なぜ自民党に投票するのかの分析結果とも通じるものがある(拙著『愚かな風』田畑書店、248頁)。そこでは消去法での自民党選択を紹介しているが、さらにいえば周辺(一般には家族が多い)から聞いた情報での安心感が挙げられている。
いわば、政権選択といわれればいわれるほど、政権交代といった変化は求めず、むしろ「安定」(現状維持)を選択する結果になっているということだ。そして少なくともテレビ報道は、こうした安定志向にとって格好のメディアであるといえる。なぜなら、量的平等に留意し、あえていえば面白さを排除して淡々と紹介報道をすることは、現状維持を覆す力は生みづらいことが容易に想像できるからだ。上述の学生周辺のイメージを固定・助長させるにふさわしい情報が流れていることになる。
来年の参院選に向けての期待
しかしながら、彼ら彼女らの社会的関心が薄いわけではない。たとえば、自主的に決めている大学のゼミナールにおける研究テーマは、ここ数年「差別」が続く。バイト先での外国人労働者の差別的低賃金、ヘイトスピーチ、女性へのさまざまな差別、そしてとりわけLGBTQ+に関する関心の高さは、想像以上のものだ。そうした関心度合いと、目の前の選挙報道が全く重なり合っていないのだ。
選挙報道の中でもとりわけ開票特番は、「面白さ」を求める作りが強まっている傾向にあるが、その面白さや魅せ方とのギャップを感じているのが彼ら彼女ら自身であることに、送り手側がどこまで気付いているのだろうか。若者の投票率の低さが連日指摘されているが、その低さを作り出しているのがテレビ報道自体である可能性を否定できない。
その不幸な結果は、本稿冒頭に書いたとおり、しっかりと投票行動に結びついている。もし身近に感じたならば、たとえば学生の関心事の1つである「女性差別」と、女性候補者数比率の圧倒的な低さ(絶対数の少なさ)や、選択的夫婦別姓に党首討論で唯一賛成しない(手を挙げなかった)政党に肯定的であることや、政治的無関心に起因する無投票には結びつかないはずだ。無知(知らない・知らされない)がゆえの行動であるということではなかろうか。
こうした話をしていたら放送関係者から、きちんと番組をみたうえで批判してほしいと真顔で反論された。実際にはやっている、と言うのだ。もちろん、すべての番組をチェックして本稿を執筆してはいない。しかし商売柄、相当程度の番組は視聴したうえでの話だが、確かに朝・昼・夜の情報系番組でも、各党の政策比較の中で扱っていた記憶はある。しかし、政党名を明示して、とりわけ女性候補の擁立について与党が消極的であるとか、唯一1人(1党)だけが選択的夫婦別姓に反対していることを、きちんと確認した報道はなかったのではないか。さらにいえば、ほぼ1度きりの扱いだ。
そうした、やった感を示すためだけの形式的な比較報道は全く意味がない。そこには意思がないからだ。たとえばいま、各報道局は「これでもか」というほどSDGsキャンペーンに力を入れている。それと同じように、各局各番組は、これぞと思うテーマで、きちんと各党各候補者を比較し、具体的な投票行動に結びつけるような番組作りをしていたか。
公平公正、さらにいうなら数量平等を錦の御旗に、うわべだけの比較に終始していなかったのか、である。こうした問題意識が全くないとすれば、そもそもジャーナリストとして失格であるが、より罪深いのは、各局各番組ともきちんと問題意識を持っているにもかかわらず、やらなかったことである。開票特番では、あるいは選挙戦後の振り返りやまとめ番組では、しっかりと解説し、特定政党の「やる気のなさ」を指摘しているからである。しかし、こうした"あと出しじゃんけん"のような手法は、自らの意気地なさを露呈させるだけであるし、より厳しく言えば、選挙報道の社会的役割を放棄しているものだ。
同じことは最高裁判所裁判官の国民審査にもいえる。裁判官ごとの評価は極めて専門性を有する事項であるが、それだけに、通り一遍の紹介や、一過性の報道で、有権者に伝わることはあり得ない。それは印刷媒体の仕事と、最初から役割放棄をしているとしか思えない対応ぶりである。衆議院選挙に話を戻して言えば、こうした基本的な情報の提供は、選挙制度の仕組みすら伝えきれていない。比例代表並立制なる選挙のありようだ。自分の一票が、どのような仕組みで、議席にどう反映するのか、多くの有権者は分からないまま投票しているとされる。
今回の自民・与党の大勝については、それほど大きな民意とのずれがあるとは思わないが、そもそもそのおおもとの「民意」の形成自体に対し、テレビがその関与を放棄しているとすれば、それはそれで選挙報道をする資格がないともいえる。開票特番のショー化を否定するものではないが、少なくとも報道の仮面を被ることはやめる必要があるということになろう。
政見放送の稀に見る少なさは、テレビそのものの賞味期限切れを示すものとは思いたくない。選挙CMのなさも、単に選挙告示の前倒しのせいだと思っておきたい。しかしこうした臨時収入の減少は、選挙情勢の報道に莫大なコストをかけてきた選挙ビジネスモデル(報道モデル)をも直撃するものと想像する。そういった意味でも、今回の総選挙(報道)は、これからのテレビの選挙報道への向き合い方を根本的に見直すきっかけになったのではないか。選挙報道に求められているお行儀のよさは、極度の自制によって、有権者に伝えるべきことを伝えないことではないという当たり前を、もう一度現場で徹底議論してほしい。