シリーズ企画「戦争と向き合う」は、各放送局で戦争をテーマに番組を制作された方を中心に寄稿いただき、戦争の実相を伝える意義や戦争報道のあり方を考えていく企画です(まとめページはこちら)。
第13回は長崎原爆をテーマに番組を作り続けている長崎文化放送の志久弘樹さん。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞(冒頭写真はノーベル平和賞授賞式の夜に現地で行われた日本被団協のたいまつ行列)を取り上げながら被爆者の声を伝え続ける意義を執筆いただきました。(編集広報部)
日本被団協のノーベル平和賞受賞
もう、あり得ないと諦めていた。毎年ノルウェー・ノーベル委員会の平和賞発表を見守るのが常だったが、2024年10月11日だけは別の作業に没頭していた。すると、公式配信映像を収録していたアルバイトスタッフが「何かさっきから『ジャパニーズ』とか『ニホン』とか言ってますよ」と騒ぎ始めた。「え? マジで?」と驚いて駆け寄り、耳を澄ます......。「『日本被団協』だよそれ! よっしゃ、獲った!」と思わずガッツポーズ。真っ先に浮かんだのは、長年取材し、2013年に82歳で亡くなった長崎の被爆者、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員の故・山口仙二さんの"笑顔"だった。胸が熱くなり、涙があふれるほどうれしかったが、「遅いよ......」とも思った。「もうみんないなくなっちまった今かよ......」と。
2024年8月放送の『テレメンタリー2024 ノー・モア・ナガサキ~戦後79年 長崎を最後の被爆地に~』、2025年1月放送の『テレメンタリー2025 ノー・モア・ヒバクシャ~NEVER AGAIN NAGASAKI~』など、長崎原爆をテーマにした番組を共に作り続けている鴨川榮二カメラマンと私は、山口仙二さんの晩年を最も深く取材したコンビと自負している。その顔や上半身に刻まれた原爆の傷跡、29年間にわたる日本被団協代表委員としての活動、1982年に被爆者として初めて国連本部で演説し、「ノー・モア・ヒロシマ、ノー・モア・ナガサキ、ノー・モア・ウォー、ノー・モア・ヒバクシャ」と力強く訴えた姿、反核平和運動の先頭に立ち続けた半生、そして発せられる言葉の重み......。核兵器と世界、日本の関わりを深く見つめ、誰よりも"人類の未来"を見据えていた。
取材の際は体調に配慮し、ご夫婦の了承を得て訪問したが、断られたことは一度もなかった。取材後には必ず合掌をして感謝を示し、笑顔で私たちを見送ってくれた。平和賞発表直後、真っ先に浮かんだのは、その"笑顔"だった。私たちは、"仙二さん"が大好きだった。
<合掌する山口仙二さん㊧写真、1982年被爆者として初めて国連本部で演説した山口仙二さん(当時51歳、米ニューヨーク国連本部)>
山口仙二さんの信念
鴨川カメラマンが記録した2008年8月9日午前11時2分(長崎原爆炸裂時刻)の仙二さんの姿を初めて見た時は衝撃を受けた。祈らず、平和祈念式典中継に背を向け、横になっていた。しかし決して眠っていたわけではない。その瞬間、胸中に去来したものは何だったのか。それは、14歳で被爆した「あの日」の記憶だったのかもしれない。「私の周りには、目の玉が飛び出したり、木切れやガラスが突き刺さった人、首が半分切れた赤ん坊を抱きしめ、泣き狂っている若いお母さん、右にも左にも石ころのように死体が転がっていました......」。国連や世界各地で証言し、日本政府の曖昧な態度に憤りながらも、「二度と繰り返させてはならない」と訴え続けた日々......今なお続く核の脅威と、変わらぬ世界の現実を見ていたのかもしれない。ただ一つ言えるのは、彼は8月9日午前11時2分に限らず、半世紀以上にわたり、生涯を通じて祈り、証言し、核廃絶を訴え続けてきたという事実だ。そして何より重んじていたのは、「広島長崎を繰り返させない」ことだった。
だからこそ起き上がったのは、日本の為政者が言葉を発する瞬間、当時の福田康夫首相の来賓挨拶の時だった。ベッドの上に座り、眼を閉じ、その一言一句に耳を澄ましていた。そしてこう語った――「やっぱりねぇ、一番肝心なことは、原爆を投下したアメリカに対して、日本政府が何も言わないというところが、本当に駄目です。厳しくアメリカに抗議をせんば。8月9日、特にそうだと思うんですけど。もう......駄目だ......」。実は、彼は単純な核廃絶論者ではなかった。「核兵器を持つ国が増えたことで、逆に使いにくくなっている」とも語っていた。どんな手段であれ、「広島長崎が繰り返されなければいい」――それが、彼の信念だった。
被爆者の平均年齢は85歳を超え、「被爆者なき時代」が迫っている。長崎の放送局として意識しているのは、被爆地の声を国内外に届ける「責任」。報道機関が伝えなければ、被爆者の証言は限られた場でしか共有されず、やがて風化してしまうだろう。核兵器の恐ろしさを知らない世代が増えれば、「核の使用」に対する心理的なハードルも下がっていくのではないかという危惧もある。ノルウェー・ノーベル委員会のフリードネス委員長は、授賞理由の中でこう述べた。「いつか被爆者がいなくなる時がくる。しかし日本の若者たちがその経験と思いを語り継ぎ、『核のタブー』の保持に貢献している」。
「一人ひとりの取り組みが変化をもたらす」
被爆者の経験と思いを継ぐ若者たち――その代表が、1998年に長崎で誕生した高校生平和大使だ。活動の合言葉は「微力だけど無力じゃない」。2001年以降、累計270万筆余の核兵器廃絶署名を国連に提出し、2018年から7年連続でノーベル平和賞にノミネートされている。長年取材を続けている第21代高校生平和大使の山西咲和(さわ)さん(23)は、長崎で被爆した祖母を持つ被爆3世。高校卒業後も海外の大学で国際安全保障や政治社会学などを学びながら、約7年間にわたり、大好きな祖母の笑顔を奪った被爆体験を次世代に語り継ぐ活動を続けている。アルフレッド・ノーベルの理想の中核には、「一人ひとりの献身的な取り組みが変化をもたらす」という信念がある。
<元高校生平和大使で現在も被爆の実相の継承活動を続ける被爆3世の山西咲和さん>
山口仙二さんは、「こんな地味な活動を続けることが一番大事なんです。継続することが大事。効果がないように見えても効果がある」と語った。核抑止論が根強い世界で核廃絶を叫び続ける咲和さんに勇気を与えたのは、被爆者の言葉だった――「あなた方(若者たち)は、未来の希望の光だ」。
なぜ核兵器を持ち続けるのか
ノルウェー・ノーベル委員会が日本被団協にノーベル平和賞を授与した意味も踏まえ、この機会に、多くの人に考えてほしい。仙二さんが街頭で訴え続けていたように、核兵器は、「お母さんが死ぬ。子どもが死ぬ。夫が死ぬ。そういう殺し方をする」ものだ。そんな"無差別大量殺戮放射線放出兵器"が本当に必要なのか? 私たちはそこまで残酷な兵器を持たなければ平和を守れないほど人間性のない野蛮な生き物なのか。人命を軽視していた80年前の戦争の産物を、これほど命や平和を尊重する時代に、相も変わらず持ち続けるのか? 「核兵器がなければ攻撃される」という恐怖は、軍需産業や政治家らが雇用や経済的利益などのために利用し、特に核保有国では「核は国を守るために必要」という教育や宣伝で刷り込まれ、核を持つ国から持たざる国々へ威圧的に伝播した固定観念ではないか。もし核兵器が「戦争を防ぐ」のなら、核抑止力があったはずの時代に、朝鮮戦争やベトナム戦争、中東戦争など多くの戦争が発生したのはなぜか。私たちは核の脅威に慣れ過ぎて、「現状維持が最善」と思い込んでいないか。核兵器の存在そのものが緊張を生み、紛争や破滅的な戦争のリスクを高めていないか。
<平和の折り鶴をクリスマスツリーに飾りつける子ども(ノーベル賞授賞式が行われたノルウェー・オスロ市、『ノー・モア・ヒバクシャ ~NEVER AGAIN NAGASAKI~』より)>
人類は歴史の中で、奴隷制や植民地支配といった「かつて必要とされたもの」を手放し、より公平で人道的な社会へと進んできた。核兵器も同じではなかろうか。今はまだ、各国の政治や経済の事情により必要とされているかもしれない。しかし、私たちは過去の常識が加速度的に変わり、これまで当たり前だった価値観や枠組みが崩れ、新しい形へと移り変わる過渡期に生きている。いつか「絶対に必要」とされた価値観が淘汰され、それが普遍的なものではなかったと気づく時が来るかもしれない。変化や革新を重ねた末、新しいパラダイムが生まれ、「こんなもの(核兵器)は要らなかった」と振り返る日が来るかもしれない。
報道にできることとは
核兵器が「使われたらどうなるか」を最もリアルに伝えられるのが、"被爆者の声"だと強く感じている。戦争のニュースや安全保障の議論では、核兵器は「抑止力」や「軍事戦略」として語られることが多いが、被爆者の証言が示すのは、そうした議論の先にある現実――焼けただれた街、生きながら皮膚が剥がれる人々、水を求めて息絶えた子どもたち、そして放射線の後遺症に苦しみ続ける人生だ。核兵器が使われたなら、そういう未来が待っている。核兵器が使われる前に、多くの人が「これは自分の未来に関わる問題だ」と気づく必要がある。
かつて、被爆者の証言は世の中に届きにくかった。しかし、伝え続けたからこそ、今、国際社会で「核兵器の非人道性」が語られるようになった。核兵器禁止条約の成立にも、こうした積み重ねがあった。ノーベル委員会も「被爆者の目撃証言が、核兵器使用は道義的に容認できないと非難する強力な国際規範『核のタブー』を築き上げた」とたたえた。長崎を最後の被爆地にするために――私たちは何をすべきか? この問いを、報道ドキュメンタリーを通じて視聴者に問いかけ続ける。その積み重ねがきっと大きな変化を生むだろう。小さな波でも、広がれば大きなうねりになる。たとえ今は静かでも、言葉は必ずどこかで響くと信じて伝え続ける。伝え続ける者がいる限り、記憶は風化しない。