教師ドラマは教育危機を救う光となれるか「子どもとメディア⑬」(後編)

加藤 理
教師ドラマは教育危機を救う光となれるか「子どもとメディア⑬」(後編)

(前編はこちらから)

2024年夏から2025年冬まで連続3期放送された教師を主人公としたドラマの最初の作品『素晴らしき哉、先生』(テレビ朝日系列)では、疲弊した2年目の高校教師・笹岡(生田絵梨花)の現実が描かれていた。保護者会にプレッシャーを感じ、自身の私生活の悩みを抱えながらの過酷な労働に消耗し、それでも生徒に寄り添い生徒のために尽くそうと奮闘する姿には、金八先生(TBS系列『3B組金八先生』の主人公)の残影も感じられた。

生徒や保護者の期待に応える教師であろうとする教師の心の内や、働き方改革の中での教員間の意識の違い、教師という仕事の素晴らしさが発信されることを期待して文部科学省が仕掛けた結果、逆に教師という仕事の過酷さが表面化することになってしまった「#教師のバトンプロジェクト」などが描かれ、現在の教育危機の実態を浮き彫りにしていた。

続く『放課後カルテ』(日本テレビ系列)でも、教育に情熱を持ち、児童に寄り添おうと努め、限界を超えて倒れるまで教師の仕事にすべてを注ごうとする小学校教師・篠谷(森川葵)の姿が描かれていた。

篠谷がしばしば口にする「寄り添う」という言葉をめぐって、産休代替で保健室に学校医として派遣された小児科医の牧野(松下洸平)が「寄り添う、、、それで解決するなら楽なもんですね」とつぶやく場面がある。口癖のように教師が口にする「寄り添う」というワードを、他の立場から客観的に見た時に感じる疑問と違和感の表出として牧野に語らせていた。

児童に寄り添えたという実感を持てずに悩んでいた篠谷は、ある時、友達の集団から離れて一人になるのが怖いと泣きながら訴える子どもに、「怖いよね...怖いのは先生も、本当はみんなも同じ」と弱い自分を子どもに打ち明け、自己開示することで、弱い心に苦しんでいる子どもの心に共感的に寄り添おうとする。

このシーンでは、自身の個性と資質の中で、教師・篠谷が自分なりの児童への寄り添い方を見つけた瞬間が描かれていた。熱血教師金八先生とは異なる寄り添い方を篠谷は見つけたのである。

児童・生徒に「寄り添う」とは

『素晴らしき哉、先生』と『放課後カルテ』に登場する教師は、金八先生的な教育への情熱と児童・生徒への愛情を持つ教師像を目指しながら、教育現場の中で金八先生的な教師になり切れないもどかしさと苦闘し、疲弊してしまう教師として描かれていた。

だが、本来、教育現場では、全員が金八先生的な教師である必要はない。多様な資質と個性を持つ教師がいて、それぞれの個性の中でよい教育の実現を目指し、多様な教師たちがよい教師であることを求める中で学校は豊かな教育を展開できる場となる。多様な児童・生徒にとって、画一的な教師しか存在しなければ、学校は息苦しいものになってしまう。多様な教師こそが、学校現場には必要なのである。

 『素晴らしき哉、先生』と『放課後カルテ』のバトンを受けたかのようにして始まった『御上先生』(TBS系列)では、生徒と教育への情熱を前面に出す金八先生と異なる自分のスタイルを自覚しながら、教育的情熱と愛情を生徒に注ぐ、教育改革を胸に秘めて文部科学省から派遣された高校教師・御上(松坂桃李)が描かれていた。

卒業していく生徒に向けた御上の言葉は、「寄り添う」教師のあり方について深く考えさせるものだった。「この一年、僕はひとつのことだけを君たちに言ってきた。考えて、自分の頭で、と」と述べた後で、「考えて、と君たちに言うたびに僕も考えた。こりゃもう無理かもしれない、と何度も思った。...この一年は僕が考えていたよりずっと困難な一年で、そのたびに君たちは信じがたい解決策を導き出してきたね」と続けていく。ここで御上は、御上なりの生徒への寄り添い方を示している。それは、生徒だけに考えさせるのではなく、自らも考え続け、生徒と共に考え続けることで生徒に寄り添う教師の姿である。

文部科学省は、1989年改訂の学習指導要領から、それまでの知識の量を問う従来の学力観ではなく、児童・生徒の思考力や問題解決能力などを重視し、生徒の個性を重視する「新学力観」を掲げてきた。共に考え続けることで生徒に寄り添おうとする姿は、学習指導要領が求める新しい学力観とも連動しながら、教育を力強く改革していこうとする教師の姿でもある。

繰り返されてきた教育改革で目指したもの

『御上先生』の中でも取り上げられていたが、学習指導要領によって教師の自由裁量による授業が制限されていることや、テストで高得点を取るだけの見せかけの学力を得ることが教育の目的と見誤られ、考える力を持つ真の学力を得てよりよく生きることを目指すという教育本来の目的が見失われていることは、日本の教育の歴史の中で問題視され続けてきたことである。

舞台となった進学校である隣徳学院の古代理事長(北村一輝)が、「ただ普通に教育をしてもね、それがよい教育だとしても、生徒たちは社会に出て認められないんですよ。人間の価値を出身大学だけで決めるような社会、それを作ったのはあなたたち教育行政ですよ」と述べるシーンがある。

大正時代の新教育運動、戦後の民主教育改革、そして1990年代から2000年代初めにかけてのゆとり教育と、児童・生徒の内発的な意欲を大事にして、考える力と判断する力、行動する力、表現する力を大事にして真の学力を求めようとする教育改革は、日本の教育の歴史の中で繰り返されてきた。だがそのたびに、理想を追い求めた教育は否定され、その中で育った子どもたちの真の学力と個性を認めようとせず、テストの点数と学歴という、見た目にわかりやすいレッテルで子どもたちを判断し評価する過ちを、日本の教育は繰り返してきた。

明治以来、日本の近代社会を作り上げ、支えてきた学歴崇拝を変えていくことは、「新学力観」「生きる力」「よりよく生きる(well being)」など、言葉を変えながら目指すべき目標を掲げても一朝一夕に変わるものではない。金八先生のような熱血教師が多くの教師の目指すべき教師像となっても、教育と社会は簡単には変わらない。社会が強固に保持してきた価値観の変化が進まない限り、容易に変わるものではないことはこれまでの教育の歴史が証明している。

チョウの羽ばたきが象徴する願い

『御上先生』の中では、アゲハチョウが折に触れて登場した。一人ひとりの小さな羽ばたきのようなささやかな行動が、やがて大きな風になって世界を動かしていくことをバタフライエフェクトと呼ぶが、最初はチョウの羽ばたきくらいささやかな力だとしても、一人ひとりの子どもが考え続けていくこと、そして自身の価値観をその中から形成していくことは、やがて社会を変える大きな力になるかもしれないことを『御上先生』は伝えていた。

気の遠くなるような時間がかかるかもしれないが、社会の価値観を変えていくには、教育行政の力に頼るのではなく、社会を構成する私たちの変化を教育によって促していくしかないのかもしれない。

『素晴らしき哉、先生!』『放課後カルテ』『御上先生』の3作品には、教師が児童・生徒に寄り添うという教育の命題の本質を考えることや、ドラマを通じて教育危機の現実と向き合って超克したいという共通する意欲が感じられた。

『金八先生』がいまだに理想の教師像として影響を与えていることから明らかなように、ドラマの持つ力と可能性は大きい。昨今の教師ドラマのように、教育の本質を問いかける作品が続いていくことで、やがてそれがバタフライエフェクトとなり、教師を目指す若者の心に語りかけ、教育危機に心を砕く人々の心を動かし、学校で学ぶ子どもたち自身が学びの意味を問い直し、前述の見せかけの学力や、学歴崇拝から脱却して、一人ひとりが「よりよく生きる」ことを教育の真の目的だと自覚できる世の中の訪れにつながっていくことを願いたい。

そのためにも、優れたエンターテインメントであると同時に、教育とは何かを考えさせてくれる良質の教師もの、学園ものドラマの登場をこれからも待ち望みたい。

※加藤理先生の連載「子どもとメディア」は今回をもって終了します。民放online創刊間もない2021年10月から寄稿いただきました。ありがとうございました。(編集広報部)

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