シリーズ企画「戦争と向き合う」では、各放送局で戦争をテーマに番組を制作された方を中心に寄稿いただき、戦争の実相を伝える意義や戦争報道のあり方を考えていきたいと思います。
第6回は山形放送の伊藤翼さん。復員兵の黒井慶次郎さん(冒頭写真)の戦争によるPTSDの実態を探る息子・黒井秋夫さんの活動を通じて、戦争による心の傷の問題に光を当てます。(編集広報部)
『でくのぼう ~戦争とPTSD~』(山形放送で2023年5月28日放送、日本テレビ系「NNNドキュメント」で同年8月13日放送)では、戦争から生還した旧日本軍兵士の心を壊し、家族との時間まで奪った過酷な戦場の真実と心の傷の根深さの実態や影響に迫りました。
戦争が残した傷痕
東京都武蔵村山市に住む黒井秋夫さんは、山形県鶴岡市出身。ことしで76歳になる秋夫さんが都内の自宅に保管している、古いビデオテープがあります。映し出されたのは、1990年に77歳で亡くなった父・慶次郎さんの、晩年の姿です。ビデオの中の慶次郎さんは、常に虚ろな目をして、かわいい孫からの呼びかけに対しても一切反応を示すことがありません。「おじいちゃん、ピースしてくれよ。早くピースしてくれ。早く!」
ただ黙って、そこにいるだけの父――それが秋夫さんの知る慶次郎さんの姿でした。そんな父が、心の病に苦しんでいたのではないか、などとは家族のだれもが考えなかったといいます。
家にこもりきりで他人と交流せず、定職にも就かなかった父。その代わりに母や、秋夫さんの兄が働かざるを得ず、一家は人よりも貧しい暮らしを強いられたといいます。故郷の村の子どもたちは、「背は高いけれども駄目な人」、"でくのぼう"の意を込めて、慶次郎さんを「六尺親父」と呼んでいました。父の表情は常に暗く重く、笑顔を見たこともほとんどないという戦後生まれの秋夫さんは、父が亡くなっても「涙一つ流れなかった」と告白します。
<ホームビデオに収められていた生前の黒井慶次郎さんの姿に精悍な兵士の面影はない>
しかし2015年、ベトナム戦争からの帰還兵であるアレン・ネルソンさんのドキュメンタリーに触れた秋夫さんは衝撃を受けます。それは、戦場の記憶によって精神を病み、戦前とはまるで別人に変わり果て、家族との関係を壊してしまったアメリカ兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を取り上げた映像でした。アレン・ネルソンさんの姿が、父・慶次郎さんと重なった秋夫さんは、夢中でペンを走らせます。当時のメモには、「父親の負った心の傷を考えたことがない」「父親と向き合う」と、つき動かされたように文字がつづられていました。
その後、秋夫さんは山形県の実家から、父の数少ない遺品を取り寄せました。初めて開く、出征当時のアルバム。そこには、利発な表情をした兵士だった頃の父の写真(冒頭写真)、そして「満蒙第一線に勇み立つ我ら若人」などとつづった勇ましい手書きの文章がありました。中国東北部・満州に渡った慶次郎さんが従事したのは、集落に潜む抗日ゲリラ兵を攻撃する過酷な「匪賊討伐」。終戦時の階級は「陸軍軍曹」、部下を率いる優秀な兵士だったことがわかります。
そんな慶次郎さんが戦後、なぜ"でくのぼう"のように生きることになったのか。戦地で体験した"戦争"の実態に迫りたい――その思いから私たちは、慶次郎さんの所属していた部隊について調べ、ほぼ同時期に入隊していた兵士の存在にたどり着きました。取材をとおして浮彫りになっていく兵士の「加害」と「被害」の実態は、取材をする立場にありながらも、言葉を失うものでした。「なんで言ってくれなかった、言ってくれれば......」息子としてしてやれることがあったのではないかと、秋夫さんは慶次郎さんへの後悔の念を吐露します。秋夫さんの溢れ出す涙を目にしたとき、戦争が残す傷痕の深さを思い知りました。
隠された精神疾患 加害の記憶
秋夫さんは18年に「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を設立、20年には自宅に「PTSDの日本兵と家族の交流館」を開き、同じような立場の遺族と連絡を取り合い、戦後を生きた元兵士に関する証言を集めています。ひとり、またひとりと集まってくる遺族たち。彼らは、戦地から生還した父に対して、いまだに薄れることのない"恐れ"を打ち明けます。「人格が変わったように激高する」「叫び声を真夜中に毎日のようにあげる」――父と向き合う遺族たちもまた、父の記憶に今なお傷ついているのです。
22年、秋夫さんたちは初めて一般の来場者を入れた証言集会を東京で開きました。およそ200人を前に、秋夫さんは、「20歳の時の私の父を見てもらいたい。どうしてこうなったんだ、だれの責任なんだ」と訴え、他の遺族たちとともに、国による実態調査を求めました。
<証言集会で父・慶次郎さんの兵士時代の写真を掲げる黒井秋夫さん>
これまで、戦争によって心の傷を負った兵士の存在は、なかなか表面化してきませんでした。旧日本兵の相当数が、PTSDなどの精神疾患に苦しんでいた実態について、現在の政府も正確に把握できていないのが現状です。研究者によれば、戦地から復員した日本兵の精神疾患に関するデータは断片的なものしか残っておらず、国によるまとまった調査や統計もありません。現在も残っている貴重な資料として、戦時中、千葉県市川市にあった国府台陸軍病院の患者約8,000人のカルテが保管されていますが、それさえも、実際にいたであろう精神疾患の兵士全体の一部に過ぎません。
広島大学大学院で兵士の精神疾患の歴史を研究する中村江里准教授(現・上智大学文学部准教授)は、戦時における精神疾患兵士の存在が、「皇軍」の戦意高揚の妨げとなるため、軍によって隠されていた事実を指摘します。
また、戦後も、精神疾患として認められ、治療を受けた兵士は、感染症や身体障害と比べて明らかに少なかったという問題があります。国府台陸軍病院のカルテを研究した埼玉大学の細渕富夫名誉教授は、「あの戦争を"侵略戦争"だとした戦後日本社会において、兵士の戦場体験は被害と加害、その両面の絡み合いのなかにあり、自らの病を口にすることができない環境だった」と説明します。実際、黒井慶次郎さんのいた部隊や渡った戦地の証言を集めるなかで、関東軍の兵士が銃剣で無抵抗の捕虜を突き殺す「刺突訓練」や、非戦闘員である住民を巻き込んだ戦闘など、凄惨な加害の記憶に直面することとなりました。そういった記憶を家族や周囲の人々に話すことは、あまりに難しいことだったと考えられます。
息子の秋夫さんは22年、故郷である鶴岡市で初めて講演会を開きました。「戦争というのは、結局人を殺すことなんですよ」と訴えます。その言葉のとおり、「人を殺した」経験を他者に、家族にさえも話すことは容易ではないと、わかります。その記憶が兵士の心を深く傷つけ、自ら殻の中に感情を閉じ込めてしまうことも、かわいい孫にピースを求められ、笑顔で返してやれないことも。「戦争へ行く」というのはそういうことなのだと、取材をする私自身が感じました。そのことを伝えようと制作した番組が、『でくのぼう ~戦争とPTSD~』です。
23年3月、この問題が国会で初めて取り上げられたのを契機に、兵士のPTSDをめぐる国の現状は少しずつ動き出しています。衆議院の厚生労働委員会にて野党議員から出された旧日本軍における精神疾患の実態に関する質問を受け、当時の加藤勝信厚生労働大臣は、国として実態調査を行うと答弁しました。その調査方針を厚労省が検討した結果、厚労省が06年に開いた戦傷病者史料館「しょうけい館」で、24年度、当時の資料と研究成果の収集を行うことが決定しました。来年度には、しょうけい館で新たに設ける兵士の精神疾患に関する展示の案が示される予定です。
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いまの国際情勢に視点を移せば、決して戦争を他人事とは考えられない現実に、私たちは直面しています。戦争が何十年にも、何世代にもわたって人々の心に刻む傷の深さと向き合えたなら、その苦しみを戦争を知らない私たちが少しでも知ることができたなら、目の前に広がる現実に対して決して無力ではないのだと信じて、取材を続けていきます。
※『でくのぼう ~戦争とPTSD~』は、2023年日本民間放送連盟賞テレビ報道番組優秀を獲得した。関連リンクはこちら。