日本のテレビドラマの大きな流れを振り返る(前編)【テレビ70年企画】

岡室 美奈子
日本のテレビドラマの大きな流れを振り返る(前編)【テレビ70年企画】

テレビ放送が日本で産声を上げたのは1953年。2月1日にNHK、8月28日に日本テレビ放送網が本放送を開始しました。それから70年、カラー化やデジタル化などを経て、民放連加盟のテレビ局は地上127社、衛星13社の発展を遂げました。そこで、民放onlineは「テレビ70年」をさまざまな視点からシリーズで考えます。今回は、テレビドラマの歴史を振り返ります。


テレビ放送が本格的に始まってから70年。この機会にテレビドラマの大きな流れをざっと振り返ってみたい。とはいえ、2017年に当時館長を務めていた早稲田大学演劇博物館で『テレビの見る夢――大テレビドラマ博覧会』を主催したときにも痛感したことだが、過去のドラマを想起しようとすると、それを見ていた自分の置かれていた状況や周辺の出来事が一緒に甦ってきて、そこからドラマについての客観的な情報だけを抜き出すことは難しい。テレビは日常に溶け込んだメディアだからこそ、画面の中身とそれを取り巻く生活が分かちがたく結びついてしまうからだ。その意味で、ドラマを見たり思い出したりすることはきわめてパーソナルな体験である。そんなわけで、「かつて〈私の〉心に刻まれたドラマ」というはなはだ主観的な基準で、時代背景や世相にもごく簡単に触れつつ振り返ってみようと思う。

1.生放送の時代(1950年代~60年代)

テレビ放送開始からわずか5年後の1958年、伝説的な傑作ドラマが生まれた。『私は貝になりたい』(脚本=橋本忍、演出=岡本愛彦、TBS)である。本作は、一人の理髪師が戦後C級戦犯として逮捕され処刑されるまでを圧倒的なリアリティで描いた。前半は導入されたばかりのVTR、後半は生放送だったが、大阪・朝日放送が輸入したビデオデッキに録画していたため、後半の生放送部分も奇跡的に保存されたという(『朝日放送五十年史』)。そのおかげで私たちは本作をDVDで見ることができる。しかしテレビ草創期には、1961年から64年まで放送された人気ドラマ『若い季節』(NHK)などほとんどの番組が生放送だったために、その実際を知ることは難しい。

生放送時には、セットが壊れたり、長すぎるケーブルが絡まったり、俳優たちが勢い余って画面の外に飛び出して突如視聴者の前から姿を消したりと、今で言えば放送事故にあたるようなハプニングが続出したという。しかしそれは必ずしも欠点ではなかっただろう。そうしたハプニングは、その番組が映画のように既にパッケージとして出来上がった作品ではなく、「いま・ここ」でパフォーマティヴに構築されつつあるという事実を再確認させてくれたに違いない。お茶の間にいながらにして、そんな瞬間に立ち会えた生放送時代のテレビ視聴者は、むしろ幸福だったのかもしれない。制作者側もまた、自ら完成した番組を見ることなく、ただ現場だけがあるという緊張感の中にいたことだろう。テレビ文化は、ライブ性と中継性とともに始まったのだった。

58年からの岩戸景気と59年の皇太子ご成婚によりテレビ受像機は一般家庭に一挙に普及し、60年にはカラー放送も始まり、64年の東京オリンピックに多くの視聴者が熱狂した。60年代の『七人の刑事』や『ウルトラQ』(いずれもTBS)は今も鮮烈に記憶に残っている。NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)や大河ドラマも60年代に始まった。テレビ時代劇も50年代に始まった『半七捕物帳』(NHK)や『旗本退屈男』(TBS)、60年代の『丹下左膳』(TBS)、『銭形平次捕物控』(TBS、フジテレビ)、『眠狂四郎』(日本テレビ)などが人気を博し、安定コンテンツとなる。63年には『花の生涯』を皮切りにNHK大河ドラマも始まった。

2.時代劇ニューウェーブとホームドラマ全盛(1970年代前半)

1970年代は大阪万博で幕を開けた。お祭りに浮かれる一方で学生運動は内ゲバの様相を呈し、72年2月に連合赤軍が人質をとって立て籠もるという「あさま山荘事件」が起き、死者3名、重軽傷者27名を出す惨事となった。これはライブで中継され、NHKと民放を合わせて最高視聴率89.7%(ビデオリサーチ、関東地区)を記録しテレビ史上の大事件となる。このあと、政治闘争は急速に終焉に向かい、三無主義(無気力・無関心・無責任)やシラケ世代といった言葉が若者を指すようになっていく。

この年の元旦には市川崑らの『木枯し紋次郎』(フジテレビ)がスタートし、「あっしには関わりのねぇこって」と言ってはコミットを避けようとする紋次郎の姿が時代を一歩先取りしていた(結局のところ、紋次郎は毎回事件に関わらざるをえなくなるのだが)。また、同じ年には勧善懲悪を裏稼業とする「仕掛けて仕損じなし」の『必殺仕掛人』(朝日放送)がスタートし、まさに時代劇ニューウェーブの年だったと言える。

この時期、政治とは無縁に圧倒的な人気を博していたのがホームドラマである。なかでも70年にスタートした、平岩弓枝脚本、石井ふく子プロデュースによる『ありがとう』(TBS)は、第二シーズンで民放ドラマ史上最高の56.3%という驚異的な視聴率を記録し、お化け番組となった(石井ふく子のホームドラマについては、『民放online』に掲載された拙稿「家族の肖像――石井ふく子のホームドラマ」<2021年10月27日>を参照されたい)。

同じく70年には、奇才・久世光彦演出の『時間ですよ』(TBS)が始まる。「松の湯」を舞台にギャグと遊び心満載の新しいホームドラマだった。この手法は、74年の向田邦子脚本、久世光彦演出、作曲家の小林亜星主演によるホームドラマ『寺内貫太郎一家』、77年の『ムー』、78年の『ムー一族』(いずれもTBS)など、下町の人情を大事にしつつもより自由奔放な表現のドラマへと発展していく。

70年に佐々木守脚本『お荷物小荷物』(朝日放送)、71年には早坂暁脚本『天下御免』(NHK)といった実験的なドラマも生み出され、どちらも虚実の境界を超えてテレビというメディアそのものを遊び、テレビの自由さを印象づけた。市川森一らが脚本を手掛け、深作欣二、恩地日出夫、神代辰巳らが監督した『傷だらけの天使』(74年、日本テレビ)も忘れがたい。

3.テレビドラマの黄金期(1970年代~80年代前半)

管見では、70年代後半から80年代前半がドラマの第1次黄金期だった。それを支えたのは、山田太一、倉本聰、向田邦子ら脚本家たちだ。

『渚のシンドバッド』や『UFO』がミリオンセラーを記録してピンク・レディーが人気絶頂だった77年には、テレビドラマ史上に燦然と輝く『岸辺のアルバム』(TBS)が放送される。一見幸せな家族がそれぞれに秘密を抱え、平穏な日常に少しずつ亀裂が走り、やがて長男によって決定的に暴露されたときに家が濁流に飲まれ流されるという衝撃的な展開のドラマで、多摩川決壊の映像とともにジャニス・イアンの『「ウィル・ユー・ダンス』が流れてくるオープニングが鮮烈だった。家族それぞれの心の空洞を浮き彫りにし、ドラマの描く家族像を根底から変えた記念碑的作品である。

倉本聰の『北の国から』(81年~、フジテレビ)は北海道富良野市を舞台に、東京から移住した黒板五郎(田中邦衛)と子どもたち・妹の蛍(中嶋朋子)と兄の純(吉岡秀隆)が厳しい自然のなかで近隣の住民たちとさまざまに交流しながら生活を営む姿を描き、大反響を呼んだ。連続ドラマ終了後も社会問題や世相を盛り込んだ8編のスペシャルドラマが制作され、視聴者は蛍や純の成長のみならず、演じる中嶋や吉岡の成長を見守った。

向田邦子は『だいこんの花』(70年~、テレビ朝日)、『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』(いずれもTBS)などホームドラマでも手腕を発揮していたが、「木下惠介・人間の歌」シリーズ最終作となった『冬の運動会』(77年、TBS)、和田勉演出『阿修羅のごとく』(79年、NHK)、深町幸男演出『ドラマ人間模様 あ・うん』(80年、NHK)などで一見平穏な家族の日常に潜む秘密や亀裂を抉り出しつつ、情感豊かなドラマを執筆した。絶頂期の81年に台湾旅行中の飛行機事故により急逝したことが惜しまれる。

この時代の山田や向田の家族ドラマでは、日常生活に覆い隠された痛みや空洞感、焦燥感や性的欲望といった、誰もが心の奥底に抱えながらも見ないふりをして日常をやり過ごしているような感情の機微を、日常的なさりげない会話やささやかな行為を通して浮かび上がらせた。テレビドラマは高度経済成長を支えた理想的な家庭という虚構を見せるのをやめ、複雑な感情を抱えた家族同士が分かり合えないことを前提に、それでもいかに寄り添って生きていくかを真摯に問い始めていた。

TBSから独立して村木良彦、萩元晴彦とともにテレビマンユニオンを設立したディレクターの今野勉も独自の世界を構築し、『天皇の世紀』(73年~、朝日放送)や『欧州から愛をこめて』(75年、日テレ)など、膨大な資料調査に基づいてドキュメンタリーとドラマの境界を越境する作品を作った。初の3時間ドラマとなった『海は甦える』(77年、TBS)や『歴史の涙』(80年、TBS)といったドラマも圧倒的なリアリティによって歴史の扉をこじ開けるようなドキュメンタリー的なドラマだった。同時期、NHKのディレクターだった和田勉も、松本清張シリーズの『ザ・商社』(80年)、『けものみち』(82年)など重厚な傑作ドラマを生み出した。

70年代末から80年代初めにかけては現在まで語り継がれる名作ドラマが目白押しだった。タイトルだけ挙げておくと、『3年B組金八先生』(79年~、TBS)、『探偵物語』(79年~、日本テレビ)、『ドラマ人間模様・夢千代日記』(81年~、NHK)、『淋しいのはお前だけじゃない』(82年、TBS)、『金曜日の妻たちへ』(83年、TBS)、『おしん』(83年、NHK)などである。その一方で、「教官!私はドジでノロマな亀です!」という台詞が流行語となった『スチュワーデス物語』(83年、TBS)を筆頭に、大仰なナレーションと感情過多な演技でツッコミどころ満載の大映ドラマが話題となった。

4.バブル、恋愛、トレンディ―(1980年代後半)

80年代は核の脅威が現実味を帯びていた時代だ。日本でも82年から大友克洋の『AKIRA』の連載がスタートして核戦争後のネオ東京を描き、核の脅威とサブカルチャーが結びついていった。86年にはチョルノービリ(チェルノブイリ)の原子力発電所の原子炉事故が起こる。その一方で、人びとは経済的繁栄を謳歌しつつあった。85年には『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)でおニャン子クラブが一世を風靡し、時代はバブル景気に向けてまっしぐらに進んでいく。

86年、鎌田敏夫脚本『男女7人夏物語』(TBS)が放送される。都会に生きる若者たちの恋愛を主軸に据えた群像劇で、20代の女性をターゲットとする「恋愛ドラマ」として大成功を収める。明石家さんまと大竹しのぶの丁々発止の会話が小気味よく、この恋愛群像劇がその後の恋愛ドラマブームを準備したことは間違いない。

80年代後半はトレンディードラマの時代である。その代表作は88年の松原敏春脚本『抱きしめたい!』(フジテレビ)だろう。浅野温子と浅野ゆう子の「W浅野」をヒロインとし、岩城滉一、石田純一、本木雅弘らとの恋愛模様と友情を描いた。このドラマではバブル経済を背景に、登場人物たちは当時「億ション」と呼ばれた都内の高級マンションに住み、スタイリストやエリート編集者など当時もてはやされた職業に就き、おしゃれなファッションに身を包み、驚くほど生活臭がなかった。社会全体が一つの壮大なフィクションだった時代の申し子のようなドラマだったと思う。

天皇崩御により1週間で終わった昭和64年を経て平成へと時代が移行した1989年、美空ひばりが逝去。この年、ベルリンの壁が崩壊し、東西の冷戦構造に終止符が打たれた。さまざまな意味で時代が変わる節目の年だった。しかしそんな社会情勢とは無縁に、日本では恋愛ドラマが隆盛を見せる。フジテレビは月曜9時台ドラマ、いわゆる「月9」を恋愛ドラマ枠としてブランド化してゆく。それを支えた一人が、当時のトップアイドル中山美穂だった。

かたやTBSでは内館牧子脚本『想い出にかわるまで』(90年)が放送され大ヒットした。今井美樹、松下由樹、石田純一らが繰り広げるドロドロの愛憎劇は、同じく90年の『クリスマス・イヴ』に引き継がれ、辛島美登里の歌う主題歌「サイレント・イヴ」が大ヒットした。バブル期、若者たちにとってクリスマス・イヴは一大イベントで、今はなき赤坂プリンス、通称赤プリに彼氏とお泊りするのがトレンドだったと言われる。

バブルは深夜ドラマをも生み出した。なかでも88年にスタートした『やっぱり猫が好き』(フジテレビ)は、小林聡美、もたいまさこ、室井滋の三姉妹がマンションで繰り広げるシチュエーション・コメディーとして人気を博した。第23回からは、当時はまだ脚本家としては無名だった三谷幸喜が脚本に名を連ねた。

後編はこちらから。

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