【onlineレビュー】 "公共メディア"の未来を考える、時宜を得た好著  小林恭子著『なぜBBCだけが伝えられるのか』を読んで

稲木 せつ子
【onlineレビュー】 "公共メディア"の未来を考える、時宜を得た好著  小林恭子著『なぜBBCだけが伝えられるのか』を読んで

英国をはじめ欧州全般のメディア通として知られる小林恭子さんが、2022年に創設100周年を迎えたBBC(英国放送協会)の歴史をひもときながら、「放送の公共性とは何か」を読者に問うタイムリーな新書を上梓した。日本で同じ「公共メディア」を標榜するNHKやその受信料のあり方をめぐって議論が続いている時期だけに、時宜を得た出版と言える。同時に、若者層だけでなく多くの視聴者がオンラインで放送コンテンツを視聴している昨今、「放送局はどこに向かえばよいのか」という問いを業界関係者の多くが抱えており、その意味でも示唆に富んでいる。

私が欧州に住み始めたのは1990年代後半で、以来、放送局のお手本として、さまざまなテーマでBBCに出向いて話を聞いてきたが、「始まりは民間事業だった」ことは、恥ずかしながら本書で初めて知った。政府の行政指導で電波放送を扱う無線機メーカーらが1922年に合弁会社(英国放送会社=BBC)を設立し、BBC製のラジオ受信機を販売して放送を始めたそうだ。小林さんは広範な文献をもとにBBCの創成期をビビッドに伝えており、その原点を知るうえでとても参考になる。

というのも、BBCが掲げている3大責務「知らせる(報道)、教育、楽しませる」は、民間時代からの初代会長が提唱したもので、BBCのDNAは創成期に形作られているからだ。これには、BBCの「独立性」の起源も含まれる。詳細は本書に譲るが、時の郵政大臣が「BBCは大いなる独立性を享受すべき」で、「郵政省(政府)の統制を受けるべきでない」と主張し、BBCは27年に、君主の名の下で定められる「王立憲章」に基づいた独立メディア「英国放送協会」に生まれ変わった。また、受信許可料(Licence Fee/いわゆる受信料)に基づく財源モデルや一定期間ごとに特許状が見直される仕組みもこの時に確立されている。

本書はBBCやメディア研究の文献としての価値も高い。最も大きな功績は、創成期に確立されたBBCの原則が時代の流れのなかでどのように揺れ動き、変化したかを、戦時下、戦後(復興・消費ブーム時代、保守・サッチャー時代)、デジタル時代、ポスト放送時代など、エポックごとに具体的な事例を挙げてコンパクトにまとめている点だ。わかりやすいだけでなく、エピソードが面白い(ちなみに、王室との関係は、別章をたてて紹介している)。

メディアの独立性は、報道の中立性や公平性と一心同体だ。BBCは戦争中に検閲を受けながらも、「報道で政府に協力するが、嘘の情報は流さない」、いわゆる「ホワイト・プロパガンダ」に徹してきた。それぞれの時代で政府の圧力から独立性を維持するために、明瞭かつ高い倫理観に基づいた編集方針の周知徹底に力を注いでいる。その一方で、BBC自体がスキャンダルの火種となった事例も少なくない。本書はBBCの過ちもきちんと紹介し、事後に見直された編集方針や組織改革にもメスを入れている。BBCが自らのスキャンダルを受けて、どう改善し、今日に至っているかは、日本の関係者にも大いに参考になると思う。

『なぜBBCだけが伝えられるのか』というタイトルだが、昨年日本を揺るがした旧ジャニーズ事務所の創業者による性加害についてのBBCの告発が一つの答えを与えているような気がする。実はBBCも2012年に看板司会者が性加害者だったことをライバル局のITVに告発報道された過去がある。そこからの教訓が局内の意識改革につながっているように思う。本書を読んで気づくのは、BBCは決して神様のような存在ではなく、多くの問題に直面している組織であることだ。お手本となれるのは、BBCが真摯に問題に取り組み、「学び」を実践できているからだろう。

個人的には、BBCの運営情報開示がきっかけでクローズアップされたジェンダーギャップ(男女の給与格差)の問題にBBCがどう対処したかも興味深かった。BBCは、男女格差だけでなく、視点をマイノリティ層の扱いまで広げてダイバーシティ戦略の実践につなげているが、これは、受信料に頼るBBCを「私たちのBBC」と受け止められるかどうかという視聴者の「受容度」にも直結する。

英国では7月5日の政権交代直前、20年ぶりにメディア法が改正され、メディア規制庁(Ofcom)による初のVODコンテンツ規制や動画配信での放送局への優遇措置などが法制化された。その一方、オンライン動画市場の成長が視聴者に多くの選択肢を提供しており、高額の受信料で運営されるBBCの存在価値もあらためて問われている。公共性が高い報道でも、世論を分断する事象では受け手の「正義」や「真実」認識が異なるため、中立性を重んじるBBCへの批判が後を絶たない。こうしたことから、2028年に更新される予定の特許状の交渉において、100年続いたBBCの財源モデルが維持されるかどうかが衆目を集めている。

小林さんは「『公共サービスとしての放送・配信』を廃れてゆくものとして扱うのは早すぎる」とし、公共サービスが対立する多様な意見やアイディアを前向きにすくいあげ、同協会の3大責務を通じて公衆の怒りや喜びを共有する試みを続けることへの期待を示している。同氏は公共サービスを漫然と続けるのではなく、その存続を能動的に選択することを提唱するが、支払い(受信料)をためらう層を説得するには、本書でも紹介されたようなBBCの取り組みの継続が重要だ。ぜひBBCには「より開かれた」公共放送として、お手本を示し続けてほしい。


なぜBBCだけが伝えられるのか
小林 恭子(こばやし・ぎんこ)著 光文社新書 2024年6月30日発売 1,078円(税込)
新書判/334ページ  ISBN:978-4-334-10352-1

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