2024年日本民間放送連盟賞(民放連賞)でラジオグランプリとラジオ教養番組最優秀に輝いたラジオ沖縄『白線と青い海~早川さんと饒平名さんの730(ナナサンマル)~』(以下、『白線と青い海』)。1978年、沖縄の道路を米国式の右側通行から左側通行に変更する事業で一緒に働いた仲間を探してほしいという電話をきっかけに、困難と思えた人探しの過程から歴史的プロジェクト「730」を掘り起こした。番組を通じて何を伝えたかったのか、どのような点が評価されたのか――取材・ナレーション・パーソナリティを務めたラジオ沖縄・竹中知華さんと民放連賞ラジオ教養番組の中央審査委員長・吉岡忍さんに対談いただいた。
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マイクは身体の一部のようなもの
吉岡 民放連賞ラジオグランプリ受賞、おめでとうございます。僕はグランプリの審査ではなく、その前段となる「ラジオ教養番組」の審査委員長として、『白線と青い海』を最優秀に推した立場ですが、面白かったなあ。
竹中 ありがとうございます。ラジオ教養の最優秀をいただいた際に寄稿した「受賞のことば」と重複するところもあると思いますが、よろしくお願いします。
吉岡 50年前の人探しから、番組は意外な展開をしていきます。人探しは成功して、お二人は再会するけど、お互い50年も前のことだからそれほど話が弾むわけでもない。ただ、その人探しの過程でリスナーから寄せられる情報からいろんなものが見えてきた。そして、最後の波の音からは、青い海と空の景色が間違いなく目に浮かんでくる。そんな膨らみと広がり――ラジオのスタジオ番組の可能性を感じさせてくれました。
竹中 そこはいろいろと苦労したところでもありました。
吉岡 竹中さんのお生まれは広島とか。ウチナーンチュ(沖縄県出身者やその子孫にあたる人たち)じゃないんだよね。
竹中 そう、広島出身です。大学時代にイベントコンパニオンをしていたとき司会者に憧れて中国放送のアナウンス教室に通い始めました。いま思うと、キラキラとして華やかな世界という憧れだけです。ニュースを伝えたいとか、何かを伝えたいとかというのは何も考えていませんでした。お恥ずかしい話です......。それでも、「絶対アナウンサーになる!」と1年間就職浪人して青森朝日放送に入りました。始めてみると、取材すること、人と会うことがとても楽しくなって、いろいろなことを視聴者に届けたいという思いが芽生えたんです。その後、広島に戻り、NHKがたまたまキャスターを募集していたので応募して、NHK沖縄放送局で7年間ニュースキャスターを務めました。
吉岡 初めての沖縄はNHKだったわけだ。
竹中 朝のニュース担当で、ニュースを読むのと、たまに中継があるぐらい。年に1回ほど企画ものをつくったり。でも、次第にニュースを読むのにちょっと飽きてきてしまって......。沖縄にずっといたいと思い始めてもいたので、今度はフリーになって、ご縁があってラジオ沖縄に入社させてもらえたという。
吉岡 ラジオは何年目?
竹中 9年目です。ラジオ沖縄のアナウンサーになってからは7年ですね。
吉岡 NHK時代はテレビでしょう。ラジオへの違和感はなかった?
竹中 ラジオはとても楽しいですよ。自分が思ったことを本当の"素"に近い状態で話せる。
吉岡 カメラがないから?
竹中 そう、とても取材がしやすいんです。自分一人で録音機を持って街頭インタビューできるじゃないですか。マイクって身体の一部みたいなもの。私は録音機を回しっぱなしにするタイプなので、取材相手のみなさんはマイクのことをだんだん忘れてくれる。そうすると"素"の話が聞けるから。
<ラジオ沖縄の竹中知華さん>
リスナーとの距離の近さ、まざまざと
吉岡 受賞番組の発端となったご自身の『華華天国』(月~金、14:30~16:35、竹中さんの出演は月~木と第5金)はどんな番組?
竹中 その日、職場や家庭で「『華華天国』で言ってたんだけど」って話題になるように意識しています。芸能、社会、家庭、苦手ですがスポーツも。毎日ひとつは取材ネタのコーナーを入れていて、「リスナー相談室」はリスナーからの相談がないときは、街頭で悩みをうかがったり、「華天なんでもランキング」というネット上にはのっていないようなネタを取材してきたり......。
吉岡 取材はご自分で?
竹中 私自身が街に出て声を聴く機会を多くしています。外の様子や動きのあるものを入れたいとは思っているので。
吉岡 そういう日常感覚みたいなものって大切だよね。テレビがよそよそしいなと思うのは、どんなに重要なニュースであっても伝え方が新聞と一緒みたいな。受け手との距離感なのかな。ラジオには、最低限の情報に加えて、「大変だよね。だけれどもこういうふうにしたら」って提案のようなものが必ず出てくる。それがたぶんラジオの垣根の低さということなのかもしれない。『白線と青い海』で一番びっくりしたのは、人と人との距離がすごく近くて、「ある人を探しています」って言っただけで次々と電話がかかってくること。
竹中 きっかけは1本の電話です。大分県に住む早川亨さんが、沖縄にいるはずの「饒平名(よへな)さん」を探しているという。早川さんはかつて道路に「止まれ」などの標示をペイントする技術者でした。1978年、沖縄ではそれまで米国式だった自動車の右側通行を左側通行に変更する一大プロジェクト「730」が進行していて、早川さんはその技術指導者を務めていたんです。一緒に働き、特に仲が良かったのが饒平名(知昭)さん。ただ、覚えているのは所属会社と「饒平名」という名字だけ。早川さんは困り果てて、当時よく聴いていたというラジオ沖縄を頼られたのです。そこで、私のワイド番組で呼びかけることにしました。
吉岡 でも、初めから勝算はあったのでは?
竹中 見つかったのは奇跡。でも、リスナーさんと力を合わせれば見つかる、と希望は心のどこかにありました。もちろん見つかったときは鳥肌が立ちましたけど。
吉岡 饒平名さんを探していますと放送すると、すぐに電話がかかってくる感じでしたか?
竹中 14時半から番組が始まると、リスナーさんからすぐメールが来て、たぶん16時台には知り合いの知り合いの方から電話がかかってきている。それをADさんが取って、「つなげますか、どうしますか」みたいな感じでした。
吉岡 すごいスピード感。リスナーそれぞれがお互いに融通し合って生きているような光景が、あのやりとりから見えてくる。
竹中 興奮しました。饒平名さんご本人はラジオを聴いてなかったそうですが、知り合いから「ラジオを聴け」「おまえのことを話しているらしい」って電話がかかってきたそうです。その日の番組はもう終わりかけでしたが、おそらく自分だろうと。
吉岡 正攻法のドキュメンタリーとして十分に成立し得る題材なのに、最初は普段着の生ワイドから出発して、やがて当事者二人の再会をはさみ、米軍統治下の世相や歴史の掘り起こしへと進んでいく構成も見事でした。
竹中 プロデューサーの西中隆制作部長ともいちばん悩み、時間をかけた部分でした。前年が沖縄本土復帰50年で、お祭り騒ぎみたいな風潮に違和感を覚えていました。この題材から、もっとリアルに復帰50年を描けるのではという期待もありました。ただ、「生ワイドで尋ね人が見つかるまでのリスナーの力」「後半のロードムービーのようなお二人の旅」「取材やアーカイブに基づく730秘話」――この3つの要素をどう構成するか。最初は生ワイド部分を短くしようとしたのですが、それでは何かが足りない。「リスナーさんの熱」と「無名なお二人の旅」どっちも大事にしたかった。だから、たぶん生ワイド部分が長すぎるんですよ。
吉岡 僕も少し長いと思った。けど、短くすると......
竹中 沖縄のラジオらしい面白さがなくなってしまう。本当は、あそこをもっと短くすべきでしょうけど、どうしても伝わらないから。
吉岡 それはやめたほうがいい。あのダイナミズムが面白いんだ。
竹中 本当ですか!
吉岡 あそここそがドキュメンタリーになっている。ハラハラするような瞬間を同時体験しているような......。箇条書きのナレーションで経緯は伝えられるかもしれない。でも、それじゃつまらないでしょう。
竹中 よかった......。結局、前半が「人探し大作戦」、後半が「過去の730」と「今の730」を辿る旅。しかも後半は過去と現在が行ったり来たりする構成になりました。出演者の声と、音や音楽で景色や状況を想像していただけるようナレーションは最小限にとどめたんです。「730」を伝える意味で「教養番組」の種目で民放連賞にエントリーしましたが、いまでも「エンターテインメント番組」ではないかという思いもあります。
吉岡 そこが、僕がラジオ教養の審査講評で評した「ラジオのスタジオ番組の可能性」でもあり、グランプリ審査講評で「過去の検証を土台として固めた上に、人探しのドタバタ感を乗せたので安心感をもって聴けた」と評価されたところだと思う。
終わりなき"戦後"を生きる
吉岡 「730」って沖縄の若い人たちにはどのくらい認知されているのかな。
竹中 私もこの業界で働いていますからうっすらとは知っていました。ただ、番組で「730」をどの程度説明する必要があるのか分からなかった。通っている美容院の若い美容師さんに聞いてみたら、知らなかったんですよ。
吉岡 例えば「4.28」なら、沖縄の「屈辱の日」とも言われる、沖縄を日本から分離して米国の支配下に置いたサンフランシスコ講和条約発効の日。本土にも「8.6」「8.9」「8.15」......徐々に薄れてきたとはいえ、数字だけで戦後の歴史を記憶している。沖縄の「730」も、若い人にはなじみが薄くなっているかもしれないけど、単に車線を変更しただけじゃなく、それまで米国の占領下だったという記憶ともつながり、「4.28」という歴史の延長線上を生きているという感覚や生活感が近いような気がする。
竹中 居酒屋のシーン。実は私は遅れて行ったんです。そしたら、みなさんに「おいでおいで」「僕たちは君の質問に答えたい。730についてあまり知らないでしょうから」と。そこで、「標識や表示を変えるのはわかります。けど、白線を引き続けたといっても、白線は元からあったのでは? なぜ白線を引き続ける必要があったのでしょうか?」と取材をしていたなかでの疑問を投げかけたんです。そうしたら、「1号線(現・国道58号線)は昔、滑走路だった。いつ戦闘機が離着陸してもいいように。そういう県だったんだよ。そこには白線が引いてあったかもしれない。でも全然整備されていなかった。道路をちゃんと整備しても滑走路に使おうとしているぐらいの県だったから、すべての白線をきれいに引き直す必要があったんだよ」と......。
吉岡 まさに占領下なんだと。
竹中 だからそれを全部引き直した。まさに今の沖縄の道路を造った人たちなんだということを、あらたて思ったわけです。
吉岡 自分たちが生きてきた時代の沖縄という体験と一体となった記憶だよね。単に思い出じゃなく、今も半分ぐらい残っている感じがあの口調にはあった。だから、当時、子どもが軍用トラックに轢かれたという話がふっと出てくる。それだけ近くて、厳しい状況に置かれていたということ。翻って、その近さが今の本土にはない。その苦難に満ちた戦後をわれわれがどれだけ生きてきたのかという。
竹中 その話をしている饒平名さんはとても厳しい表情だったし、沖縄の人たちがたぶんずっと思っているのは、「分からないよね、県外の人には」という言葉。そこに県外から早川さんが行ったわけですが、それはけっして県外の人を責めているわけじゃなくて、どこかにあきらめというか、分かってもらえないという思いをずっと持っている。
吉岡 僕らはこの思いをずっと持って生きてきたんだよ、という。
竹中 そう思います。
吉岡 今の本土と沖縄との落差を、われわれ聴く側もきちんと捉えなくちゃいけないんだなということを強く考えさせられました。
<ラジオの魅力をめぐって談論風発>
臨場感ある音を録るために
吉岡 最後のシーンで早川さんが念願だった沖縄の海に入っていきますよね。波の音を聴いていると、本当に沖縄の海と青空が見えるような感じがしました。ご本人は喜んでいたでしょうね。
竹中 とっても。ニコニコしながら。ふだん水泳をされているらしく、ゴーグルや耳栓も持ってきて、かなりの時間泳いでいました。
吉岡 音もよく録れています。
竹中 レコーダーにガンマイクを付けて私も一緒に海に入りました。近くないと、目に浮かぶような音は録れないんです。特に波の音って、引き潮になっているところで陸側から録ってもきれいな音は録れないので。
<再会を果たした早川亨さん㊨と饒平名知昭さん㊧>
吉岡 放送後の反響は?
竹中 一緒に探してくださったリスナーさんたちはとても喜んでくれました。饒平名さんからも早川さんからも結構な頻度で連絡があります。お二人とも月に一回は電話しているようです。
吉岡 最後に、これから番組をお聴きになろうとしている方や全国の方にメッセージを。
竹中 民放連賞などのエントリー番組を見ると、名のある方が取り上げられることが多いじゃないですか。それもすごく大事なこと。けど、ラジオはそういう方だけじゃなく、私の生ワイド番組も毎日、地元のおじいやおばあ、子どもたちの一言の面白さで成り立っています。この『白線と青い海』も無名の高齢男性の話。こうした誰かの汗で今の自分が暮らせているんだという気持ちになってもらえたらいいなと。もちろん、単純に沖縄に行きたい、海を見たいと思っていただければうれしいですね。
吉岡 沖縄でのこれからの活躍を期待しています。ありがとうございました。
(2024年12月6日 民放連会議室にて)
ラジオ沖縄 制作報道局報道部アナウンサー
竹中 知華(たけなか・ともか)
1982年広島県生まれ。NHK沖縄放送局キャスターなどを経て、2017年よりラジオ沖縄アナウンサー。体当り取材で地元に根差した放送に臨む。担当番組『華華天国』ほか。
作家
吉岡 忍(よしおか・しのぶ)
1948年生まれ。早稲田大学在学中から執筆活動を開始。87年『墜落の夏』で講談社ノンフィクション賞を受賞。2007年5月から13年3月までBPO・放送倫理検証委員会委員を務める。著書に『「事件」を見に行く』『M/世界の、憂鬱な先端』など。民放連賞中央審査員、日本ペンクラブ前会長。
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